ON COME UP
# | Oct 10, 2017

創業75年の博多のチョコレート屋三代目がパリに自身の店「Les Trois Chocolats」をオープン。独創的な発想の基点とは

Interview & Photo: Atsuko Tanaka

未来に向かって躍動する人たちをインタビューする“ON COME UP”。第31回目のゲストは、パリを拠点にショコラティエール(女性のチョコレート職人)として活躍する佐野恵美子さん。今年で創業76年を迎えた博多の老舗店「チョコレートショップ」の三代目でもある。大学卒業後、一般企業に勤めるまで実家を継ぐ気など全くなかった彼女だったが、地元の人々に愛されるチョコレートを心を込めて作る父の姿を見て、継ぐことを決意。25歳でチョコレート修行しに渡仏する。10年間の修行を経て、今年の2月、パリの旧市街と呼ばれるマレ地区に自身の店「Les Trois Chocolats(レ・トロワ・ショコラ)」をオープン。人々の激励を受けながら、スイーツ激戦区で日々奮闘している。家業を継ごうと思ったきっかけや、渡仏後の苦労、フランスと日本の職人の違い、今後の展望などを聞いた。
PROFILE

ショコラティエール佐野恵美子 / Emiko Sano

大学卒業後、一般企業にて三年間営業職に就き、その後チョコレートショップを100年続けたいという想いから、渡仏を決意。 フランス語も全く話せずパティシエ経験もないまま、フランスのロワール地方にあるパティスリー、le chocolatier(ピエールエルメ、サダハルアオキなどが所属する ルレ・デセール(Relais Dessert)の会員でもある)にて一から製菓を学び、その後南仏や、人口5000人ほどの小さな村にあるパティスリーなどさまざまなシェフの元修行し、修行中cake au patisserie a Beauzacのプロフェッショナル部門にて優勝。その功績が認められパリにてプラザアテネ、ジャックジュナンで勤務した後、2015年 サロンドショコラパリで開催されるC.C.Cにて当時所属していたショコラトリーのコラボレーターとして金賞を受賞。 博多から世界へと親子3代の夢を叶えるべく、2017年2月パリにles trois chocolats をマレ地区にオープン。

佐野恵美子

小さい頃は、どんな子供でどんなことが好きでしたか?

すごいおとなしい子供でした。小学生の頃はピアノ、習字、そろばん、水泳、塾、ミュージカルの踊りに演技と、習い事で毎日忙しかったです。特に習字とミュージカルが好きでしたね。5年生からは受験勉強のため塾一本になりました。

ご両親にはどんな育てられ方をしましたか?

父は忙しくて家にいることがほとんどなかったですし、私は甘やかされていたので、怒られた記憶は全然ないです。逆に大人になってから礼儀作法とかを厳しく言われるようになりました。母は厳しかったですが、今思えば仕事と子育ての両方をしていて、すごいなと思います。

中学、高校の頃はどんなことに興味を持っていましたか?

仏教系の学校だったので、朝礼の時に念仏を唱えたり、茶道や華道も授業として受けました。中学では剣道をやっていたのですが、高校から遊びの方に目覚めて、やんちゃなことをしては母を泣かせてました(笑)。

大学では何を勉強したのですか?

福岡大学で経済と経営を学びました。実家が自営業ということで経営に興味がありましたし、将来的に自分が店を継がないにしろ、知識があればいいなと思って。

卒業後は地元の一般企業に就職されたそうですが、どんな仕事をしていたのですか?

大学卒業後は外商員として、宝石やお着物など、全国の有名なものをお客様に届ける仕事をしていました。営業を通して、いろんな方との接し方を学ばせてもらいましたね。また、作り手の思いをお客様に繋ぐ仕事なので、職人さんとも交流があり、今の仕事をする上でもやっていて良かったと思います。

外商員として働いていた頃、京都のツアーにて

家業を継ごうという意識はいつ頃から持ち始めたのですか?

最初は継ぐ気なんて全然なかったんですけど、営業でいろんなところを回るうちに、地元の多くの方が実家のチョコレートショップを愛用してくださっていることを知って、びっくりしました。ある日、仕事でたまたまお店の近くを通った時に、お客様が見えなくなるまでお辞儀をして見送る父の姿を見て、出来上がったものを提案して売るだけの外商の仕事と比べて、自ら作り出すってとても良いなと思って。それに私が三代目として継いでお店が100年続いたらすごいと思って、父に相談してみたんです。

お父様には最初大反対されたと聞きました。

はい。私は父が両手を挙げて喜んでくれると思っていたのに、「お前には無理やろ。職人をなめんな」と言われました。その時私はすでにやりたい気持ちでいっぱいだったし、言い出してしまった以上後に引けなかった。どうしても働かせてほしいと言ったら、「一度フランスに行って本場を見て、本当にやる気があるなら考える」と言われ、私は「じゃあわかった、行ってくる」って(笑)。フランス語もチョコレートについても全く知らなかったんですけどね。

そして、25歳でフランスに。最初からパリに行かれたのですか?

最初はパリから電車で1時間くらいのトゥールという街を選びました。東京でさえ2回くらいしか行ったことのない福岡育ちの私がいきなりパリのような都会に住めるわけがないと思ったし、フランス語を一番綺麗に話す街と言われているので、語学を勉強するのに良いんじゃないかと思って。そこで3ヶ月語学学校に通いました。

チョコレート作りはどこで学んだのですか?

Caf(セーファー)という職業訓練校に1年通いました。そこには学校で学びながら、腕があれば地元のお店で働くことができるプログラムがあるんです。14歳から通えて、お菓子以外もいろんな教科があります。

でも言葉がわからないと大変そうですね。

最初の頃は、先生が何を言ってるかも、お菓子についても器具の名前も全然わからなくて本当に帰りたかったですね(笑)。毎日失敗しながら、みんながやっているのを見て学んでいましたけど、10人くらいいるクラスの中で自分は一番下でした。

悔しかった出来事とかありますか?

最初に働いたお菓子屋さんで、ちょうど同じ時期に働き出した14歳の男の子と同じ仕事をさせられていたんです。ある日、先輩に「ゴムベラを取って」って言われて、その子に「恵美子はわからないよね」って言われた時はすごく悔しかったですね。それからは職場の人と仕事帰りに遊んだり、カフェに外国人が集まってフランス語を話す会に出かけたり、大好きなジブリの映画をフランス語で観たりして、一生懸命フランス語を勉強しました。

その後は違うお店に勤めたのですか?

最初のお店に1年勤めて、そのあとは南仏のペルピニャンというスペインとの国境にある街のお店で1年勤めました。いろんなところを見てみたかったのと、旅が好きなので、旅して食べてみて、このシェフの元で働きたいって思う人がいたら働かせてほしいとお願いして。働くといっても、お給料はもらえないような研究生としてでしたけど。

パリにはいつ頃行かれたのですか?

その次に働いた「ブルーノ・モンクディオール︎」」のシェフが私の大好きなシェフ、クリストフ・ミシャラクさんと繋がっていて、クリストフさんの元で働いてみたいと言ったら、話をしてくれて働けることになりました。その頃、クリストフさんはパリのプラザ・アテネでシェフパティシエをされていたんです。私はもともとは修行を終えたら日本に帰国しようと思っていたので、その頃は帰国前にパリに半年くらい住めればいいかなと思っていました。

パリに住んでみてどうでしたか?

すごく楽しかったです。それまでは同じフランスでも、パリに行った時にしか食べられなかったシェフの新作がすぐに食べられたり、イベントがあれば参加できたりと、帰国するはずだったのにパリの生活がすごく楽しくなってしまって。

その後も色々なお店で修行を積まれたのですか?

はい。そのあとは「ジャック・ジュナン」というお店で初めてチョコレートを学ばせてもらいました。それ以前のお店で働いていた時は、ケーキをメインに作っていて、本格的にチョコレートを作ったのはそのお店が初めてでした。それから「パティスリー・シエル」というシフォンケーキ屋さんなどを経て、チョコレートを自分一人で全部作れるお店を探して、「ラ・プティット・ローズ」というお店で働くことになりました。そこで働いている時に、そのお店が「サロン・デュ・ショコラ(*)」で金賞を獲ったんです。
* 毎年10月にパリで行われるチョコレートの祭典。現在はアメリカ、日本、中国など世界各地でも行われている

サロン・デュ・ショコラの授賞式。ラ・プティット・ローズの渡辺未幸シェフと

受賞を聞いてどんなお気持ちでしたか?

まさかという感じでびっくりしました。レシピはシェフが考え、私が制作に携わったものだったので、私もコラボレーター(合作者)として賞をいただきました。

サロン・デュ・ショコラに出るには資格が必要なのですか?

サロン・デュ・ショコラはチョコレートが好きな人たちの集まりで、フランス人の弁護士とかシェフとか、いろんな方が登録されています。その方たちが、応募された何千のチョコレートの中から良いと思ったものを選ぶんです。私たちはフランスのショコラティエールに送る賞の金賞に選ばれました。

フランスではチョコレート職人は男性の方が多いのですか?

地方にはショコラティエール(女性のチョコレート職人)は結構いますが、パリ市内では増えてはきていても、まだ男性の方が多いですね。日本の専門学校などは女性がほとんどのようですけど、フランスは女性が半分以下くらいじゃないですかね。

日本のチョコレート職人は、東京で勝負してから世界を目指す人の方が多いかと思いますが、東京を経由しないで福岡から直接パリに挑みに行った佐野さんは、他の東京経由のショコラティエと何が違うと思いますか?

私がこうやって生きているのは福岡の方のおかげだと思っているので、東京で勝負しようとは全然考えてなかったです。それに私にとっては、東京もパリも同じ外国だと思っていたので。

東京を経由しないで良かったと思います?

もちろん東京にもいいパティシエさんはいっぱいいらっしゃるので、東京でも学ぶことはたくさんあったと思いますけど、日本のやり方を知ってしまっていたら、少し斜めな見方をしていたと思うんですよね。日本の技術の方がいいとおっしゃる人もいますし、繊細さで言うとフランス人より日本人の方が優れている部分もありますけど、私はパリで初めてお菓子を学べて、考え方や世界観など、自由に吸収できたんじゃないかと思います。

福岡の良さはどういうところにあると思いますか?

衣食住全ていいですし、皆さん地元愛が強くて福岡を大好きなところです。アツい街、アツい魂を持った方がたくさんいるので、福岡っていいなって思います。父の世代でも一風堂さんとかは早い段階で世界に出て行かれましたが、最近は若者の中にも福岡や九州の良さを世界に伝えたいと思っている人たちが増えています。

2014年のパリコレに出たブランドのお土産に、ご実家のチョコレートが採用されたそうですが、そうなったきっかけを教えてください。

オートクチュールのブランド「ジェレミー・ブエノ」のデザイナーさんが、ある日本の雑誌のパーティーで実家の「ZEROチョコレート」を食べて、すごく美味しいからショーのお土産に使いたいと言ってくださったそうです。うちのチョコレートでもフランス人に好んでもらえるのかと心配していたんですけど、モデルさんやスタッフの方にもすごく喜んでもらえました。その時、初めてうちのチョコレートでも世界に通用するんだと思いました。

(左):ZEROチョコレート (右):パリコレのジェレミー・ブエノのショー会場にて

ZEROチョコレートは、女性に安心して食べてもらおうと、お父様が考案されたそうですね。

父は、育児や仕事などで忙しい女性たちが何も気にせず食べられて、「これなら砂糖が入ってないからいいか」と、“言い訳ができるチョコレート”として作ったんです。砂糖ではなくサツマイモの糖分を使っていて、カカオの香りやいろんな素材の甘みを感じて、すっきりとした味わいになっています。

のちに、アンテプリマやサルバムからも、ファッションショーのバックステージにチョコレートを依頼されたりと、ファッション業界との繋がりもありますが、ファッションからインスパイアされることはありますか?

いっぱいあります。特に音楽に合わせてモデルが服をまとってパーンと出て来た時はいつもすごい衝撃を感じますね。ファッションとチョコレートと、業種は全然違いますが、デザイナーさんは同じ職人として考え方が似てると思いますし、皆さんプライドを持ってやられているので話していてとても面白いです。

修業時代にお父様とのやりとりで忘れられないようなことは何かありますか?

父とはケンカ状態でフランスに来たので、実はパリコレのお話しを頂くまでは連絡を取っていなかったんです。ただ、フランスに出発する前に、「腕を磨くことも大事だけど、フランスで出会った人達との縁を大事にしろ。それがお前の財産になる」と言われました。お店を出してから本当にたくさんの方に助けてもらっています。あの時は、その言葉の意味があまりわからなかったのですが、今はすごくありがたい言葉をもらったと感謝しています。

チョコレートショップの二代目であり、父親である佐野隆氏と

そして、いよいよ今年の2月にパリのマレ地区にご自身のお店を出店されました。なぜマレを選んだのですか?

フランスは世界一の観光大国で、中でもマレ地区は特に観光客が多く集まります。旧市街と呼ばれる、みんなが守っていこうとしているこの場所で勝負してみたいと思っていたんです。

実家のお店とは商品内容をかなり変えたそうですね。

もちろん父、祖父の気持ちを受け継いで作っていますけど、どちらかというと自分のオリジナリティーを出したいという気持ちがありました。それに、日本人はまろやかなミルクチョコレートを好む人が多いですけど、フランス人はカカオの強いものを好む方が多いので、日本と同じものをやっても受け入れてもらえないかなと思って。

チョコレートに味噌、醤油、きなこ、ゆずなど、日本の食材を使っていらっしゃいますが、外国に住んでから日本の食材に対して考え方は変わりましたか?

日本にいた時は、そういう素材を料理の時にしか使ってなかったですけど、例えばフランスのカカオと合わせてみて、素材によってはすごく美味しくなる可能性を持っていたり、合わせ方によって新しいものに生まれ変わるんだとわかりました。それぞれの素材がいいからこそですね。

独創的なチョコレートを作るにあたって、何からヒントを得ていることが多いですか?

旅先やいろんなところでの出会いです。例えば「テ・ア・ラ・モロッカン」というモロッコのミントティーをイメージしたチョコレートは、私がモロッコの砂漠を旅した時に、ベルベル人が朝淹れてくれたミントティーからヒントを得たものです。ほかにも、ハチミツしょうがは小さい頃風邪を引いた時に母親が作ってくれた優しい味を表現できたらって思って作りました。あとは、お客様がこういうものを食べたいとか、これはもっとこう表現すべきだとか教えてくださるので、そういう意見も大事にしています。

フランスと日本で、味に対する感性は具体的に何が違いますか?

チョコレートに関しては同じかと思います。

パリのチョコレートはやはり世界のトップレベルだと認識することはありますか?

日々認識しています。味、想像力、表現力と本当にすごいですね。日本は外国で流行ったものが流行る傾向が多いけど、パリは自国の文化を大事にしながら伝統的にあるものを今の時代に合わせて表現する人が多くて、いちから何かを新しく生み出すわけではないんです。それが世界に通用して、波及していくところがやっぱりすごいと思います。

彼らはどういうところからインスパイアされているんでしょうか。

旅先でアイデアを得たり、フランス人はおしゃべり好きなのでシェフ同士のおしゃべりからヒントを得る場合もあるでしょうし、職人気質の方はずーっと考え続けることもあると思います。あと、彼らは仕事だけではなくプライベートもとても大切にするので、家族と一緒に過ごす時間から生まれるものもあると思います。

佐野さんがチョコレートを作る上で一番大事にしていることを教えてください。

温度管理と鮮度を保つことです。チョコレートは本当に繊細なので、仕上げ時の温度と湿度の管理をしっかりしないと美味しいものは作れないですし、お客様に提供するときの温度管理もとても大事です。また、暑い時期と寒い時期ではお客様の好みが変わるので、同じ商品でも季節によってカカオのパーセンテージを変えたり、夏場は保存状態を良くするために少ししか作らないようにしています。

お店を開いてから半年以上が経ちましたが、成果を感じることはありますか?

常連の方がかなり増えました。毎日同じケーキを買いに来てくれる方や、「今日はうちに家族がたくさん集まるから、みんなに私のお気に入りのチョコレートをプレゼントするのよ」なんて言ってくださるマダムもいます。また、うちのお店の近くに新しくパティスリーができると、「あなたの代わりに偵察に行ったけど、大丈夫よ。私の一番はここだから」など、涙が出るほど嬉しいお言葉を毎日いただいてます。

ちなみにご実家のチョコレートショップの一店舗は、10月6日にリニューアルオープンされましたね。大盛況の様子が伺えます。

天神ソラリアプラザの中にあった店舗をレ・トロワ・ショコラとコラボレーションさせ、新たに「レ トロワ ショコラ ♡ チョコレートショップ」としてオープンしました。こうして父の店と私の店のコラボ第一号店を福岡に出店でき、親子3代の味を表現することができて、とても嬉しいです。チョコレートは私がパリで作って空輸したものを、生菓子と焼き菓子は祖父の味を守ってきた父が自身の表現や想いを込めて作ったものを出させていただいてます。たくさんのお客様から「楽しみにしていました!」とか、「これからも応援しています」などのお声をいただきました。今まで支えてきてくださった皆様には感謝の気持ちでいっぱいです。

天神ソラリアプラザ内にリニューアルオープンした「レ トロワ ショコラ ♡ チョコレートショップ」

ご自身のチョコレートのスタイルを言葉で表すと?

伝統と自由。もちろん祖父の代から受け継がれているものも大事にしていますけど、自分自身を表現しないと自分のチョコレートはできないと思っているので。これは私にしか作れないって思ってもらえるくらいオリジナリティーを出せればいいなと思ってます。

好きな映画や写真、音楽やアートなどで一番影響を受けたものは?

映画はジブリの作品が大好きで、中でも一番は「魔女の宅急便」です。12歳のキキが知らない場所で一人で頑張っている姿を自分と重ねて、初心に返って私も頑張ろうって思います。音楽はハード系のロックが好きです。ブラフマンさんは高校時代から好きですし、ワンオクさん(ONE OK ROCK)さんの「Nobody’s Home」という曲も大好きです。

最近気付いた自分に足りないこととは?

仕事でも人間的にも、私って本当に未熟だなと思うことばかりで、足りないことだらけです。特に経営に関してはまだ一年生なので、知らないことだらけで大変ですね。レストランを経営されている先輩方などにお話を聞いて、アドバイスをもらってなんでも挑戦しています。

お店をやってみてどんなことが一番大変でしたか?

お客様は美味しいって言ってくれても、売り上げを良くして、お客様にもっと感動を与えられるように、この先もずっと続くお店にしていくことですね。チョコレートやお菓子にどう表現すべきか、どう伝えるのが良いのかわからず、まだまだ学びながら実践しているところです。でも、フランスは自由な国でなんでもやってみて良いと思うので、商品の内容は常に変えています。

フランスは女性オーナーにとって優しい国ですか?

私の場合は女性オーナーというより外国人オーナーとして見られることが多く、お客様や業者さんに少し下に見られていると感じることがあります。私の語学力だと、言わないといけない時にちゃんと伝えられなかったりするので、もどかしく思うことがあります。でも、それをポジティブに考えて可愛がってもらえるように頑張っているので、周りの皆さんには応援してもらっているのを感じます。

憧れの人や尊敬している人は誰ですか?

「焼き鳥の八兵衛」の八島且典さんと、「Sola」の吉武広樹さん。八島さんとはパリのラーメンウィークでお会いしてから可愛がってもらっていて、海外で活躍される時や、博多でのイベントなどに参加させてもらったり、素晴らしい経験をたくさんさせてもらっています。吉武さんは、すごく大きな心でブレない意思を持っている方。海外にいると自分のことで精一杯になってしまいがちですが、なんの見返りもなく他人の面倒も見て、全員で楽しもうってやられている方です。

八島且典氏(左)と吉武広樹氏(右)と

社会で起こっていることで、気になることは何ですか?

来年パリで開催される「ジャポニスム2018」に期待を寄せております。特にイベントなどに参加するわけではありませんが、パリでお店を構える日本人として、パリを中心に世界中の方に日本を知ってもらい、日本の素晴らしさを発信できればと思っております。

自分のやっていることで、日本や世界が変えられるとしたら、どんなところだと思いますか?

日本の美味しい食材を使って、チョコレートやお菓子として誇りを持って表現しているので、日本や日本人の良い部分をフランス人や世界の人にわかってもらえるんじゃないかと思ってます。

他人が思う自分の像と、実際の自分自身との差があると感じる部分を教えて下さい。

社交的で頑張り屋さんだねって皆さんおっしゃってくれるんですけど、本当は根暗で引きこもりでだらしないところです。みんなでわーっとするのも好きですけど、基本的には家で一人でアニメやYouTubeを観るのが好き。でもお店を持ってからそんな時間はなくなっちゃいましたけどね。

一気に視界が開けた瞬間や、自分が成長したと実感した出来事はありますか?

お店をオープンした日です。それまでは工事が思うように進まず予定より4ヶ月も過ぎていたので、早くオープンしないとって焦っていたんですけど、レセプションパーティーでいろんな方に食べてもらった瞬間に、もっと美味しいものを作らなきゃと気持ちが切り替わりました。

店オープン初日

佐野さんにとって、成功とは何ですか?

今の私にとっては続けていくことです。博多のチョコレートショップを100年続けることが目標であり、自分の使命だと思っています。そして博多だけではなく、世界にも広げていくことです。

3年後、5年後、10年後の自分はどうなっていると思いますか?どうしたらそれになれると思いますか?

まずはパリのお店をきちんと続けて、もっといろんな人に知ってもらいたいです。10年後は、相手ありきのことなのでわからないですけど、結婚して家庭を持っているといいなと思います。日本のお店を守っていきたい気持ちもあるんですけど、やはりパリの刺激も大事なので、日本とパリを行き来できるようになっていたいです。

佐野恵美子 Information