内野洋平
小さい頃は、どんな子供でしたか?
やんちゃな子供でした。親の言うことをまったく聞かなかったみたいで、とにかく走り回っていたらしいです。あとはなにより友達と遊ぶのが好きでした。
ご両親にはどんな育てられ方をしましたか?
厳しい時と甘い時が両極端の“アメとムチ”。父親に叩かれることもよくありました。理由は、勉強しないからじゃなく言うことを聞かないからで、「調子に乗るな」ってセリフは 1日に10回くらい言われていました。お調子者だったんです(笑)。でも毎週のようにいろんなところへ連れて行ってくれました。家族で身体を動かすことが多くて、夏はジェットスキーとキャンプ、冬はスキーとかなりアウドドアな家族でした。
中学、高校の頃はどんな生活を送っていましたか?
部活熱心でしたね。小さい頃からスイミングスクールに通い始めて、中学では水泳部に入部しました。朝練習、昼勉強、夕方練習、夜はスイミングスクールに行ってさらに練習という生活でした(笑)。父に連れて行ってもらったスキーがきっかけでモーグルも始めて、中学3年生の頃には選手として大会にも出ていました。高校は全国でもトップクラスのスポーツ校に水泳で入学しました。
そんな忙しい練習生活の中、BMXに出会ったきっかは?
水泳とモーグルに対して本気ではあったんですけど、自分の中でどこか言い訳をしてしまうようなところがありました。水泳は身体の成長が鍵になるところがあって。例えばイアン•ソープ(*)は足のサイズが35センチあって、フィンをつけているようなものです。逆に北島康介さんのように身体が大きくない割にあの速さで泳げるのは異例で、もう天才ですね。僕はモーグルでエアーと呼ばれるジャンプが得意でした。でも滑りに関しては、北海道や長野のようなところで生まれ育った子供たちだけが持つ「雪と友達」のような感性にはどこか勝てない部分があった。神戸に雪はない、みたいな(笑)。頑張った分の結果が欲しかったし、言い訳のできないスポーツを探していたんです。高校のクラスに、サッカー、バスケ、柔道で全国大会に出るような運動神経のいい奴らが集まっていたから「同じスポーツを一緒に始めたら、誰が最初にうまくなるんだろう」って10人で同時にスケボーを始めました。
*オリンピックで5つの金メダルを獲得した男性競泳選手
BMXの前にスケボーとの出会いがあったんですね。
当時は、ちょうどスケボーが雑誌で特集され始めた頃だったので。まだインターネットが情報源でもなかった時代です。ある時仲間のひとりが、神戸のメリケンパークでスケボーの大会が開催されるらしいという話を聞きつけて、大会を観に行こうということになりました。でもスポーツ校に通う僕たちが部活を休むなんて考えられない。顧問の先生はすごく厳しかったですしね。それでも全員でなんとかして大会を観に行きました。そうしたら、そもそもの情報が間違っていてスケボーじゃなくてBMXの大会だったんです。
なんと(笑)。運命的な出会いの瞬間ですね。率直にどう思いましたか?
遠目から見て、「あれっ!?」 って。自転車がくるくる回っていて(笑)。でも近づくにつれて、驚きと、かっこよさに圧倒されてすっかり見入ってしまいました。仲間に、「スケボーちゃうの?」って言う奴もひとりもいなかった。とにかくかっこよかったんですよ。当時高校2年生でファッションにも敏感な年頃だし、髪型も、かかっている音楽も、全部かっこよかった。
BMXはストリートカルチャーと深い関わりのあるスポーツだと理解しています。 その当時から今までのシーンの変化を教えてください。
僕たちがBMXを知るきっかけになったその大会は、神戸初のBMX専門プロショップのオープニング記念イベントだったと後で分かりました。時期的にも、まさに全国に専門ショップが増えてきて、スケートとBMXシーンが盛り上がり始めたタイミングで。あの頃と比べて、今はイメージも時代と共に変わってきていると思います。当時はちょっと悪くてやんちゃな印象だったかもしれません。駅前で夜な夜な乗るものみたいな。今はライダー人口も断然に増えたし、高校生や大学生だけじゃなくて、子供も昼間に公園で乗っています。
BMXにはプロ資格があると聞いています。
「King of Ground」(キング•オブ•グラウンド、通称KOG)という全日本選手権があって、アマチュアクラスの優勝者のみにプロ資格が与えられます。地域ごとに通年4回開催されるので、毎年4人がブロに昇格するわけです。一方でその年のプロ最下位4人がアマチュアに落とされます。サッカーのJ1、J2と同じような仕組みですね。
プロへ昇格するのが難しい上に、実力によってはアマチュアへの降格もあり得る。まさに言い訳がきかないスポーツですね。
それとBMXは、コンクリートがあればどこでもできるんです。スケートは、スケートパーク(*)がないと思うように練習ができない。日本と比べてアメリカなどは施設がたくさんあって環境は整っていますけどね。オシャレでかっこいいというのもBMXの魅力ですが、そういった言い訳ができない部分が僕の中で一番大きかった。寒い土地だろうが、暖かい土地だろうが、コンクリートは絶対にありますから。
*舗装面にジャンプ台などが設置されたスケーター用の施設
17歳でBMXと出会ってからプロライダーに勝ち上がるまでの経緯を教えてください。
一番初めのライバルは、高校で一緒に始めた10人。週末にだけ集まって、その一週間の間にどれだけ上手くなれたかを見せ合いっこしていました。その中で僕の成長スピードが一番早くて、その後はライバルがどんどん変わっていきました。次は神戸でBMXに乗っている先輩方。ものすごくレベルが高くて、とてもじゃないけど一緒に練習はできないから、まずは彼らの練習を2時間くらい見て、その人たちが帰ってからそこで練習していました。そして、20歳でプロライセンスをもらいました。
師匠のような存在の人はいましたか?
神戸にあるBMXショップの店長、小谷明生です。神戸BMX界の一番ボスで、かっこよくてずっと彼を慕っていました。「お前は才能があるから、頑張れば絶対世界チャンピオンになれる」って言ってくれたんです。その言葉を真に受けて本気で頑張りました。僕はいつも横にライバルがいないと成長しないタイプの人間です。だから兵庫で一番になった後、高校を卒業して日本で一番レベルが高い東京に行こうと決めました。当時東京で活躍していたプロライダーの田中光太郎と小谷は兄弟のような仲で、上京した後は田中が僕の面倒を見てくれました。というか、僕がくっついて行ったんですけど(笑)。テレビや雑誌にもたくさん出ていた彼の荷物持ちとして、ありとあらゆる現場について行って、いろんなことを勉強さてもらいました。
その後、若干22歳という史上最年少で日本チャンピオンのタイトルを獲得されます。どんな変化がありましたか?
初めてスポーツブランド企業がスポンサーにつきました。そうなってみて、この業界は「タイトルを獲ってからが勝負なんだ」と思いました。ユニクロのCMに出たり、出演するショーが増えたり、いろんな仕事が来るようになって、さらに上に行くには世界チャンピオンじゃないとメデイアも周りも動かないと気がついたんです。もちろん世界タイトルは高校生の頃から目指していたけれど、いろんな大会でタイトルを獲るたびに、大人になるように自分の考え方が変わっていきました。
その3年後に念願の世界選手権初優勝を果たし、数々のスポンサー契約を結ばれましたね。活躍を振り返ってどう思いますか?
BMXは本気の遊びというか、それは今も変わらなくて、仕事って考えてしまうと上手く回らない気がします。僕には周りのみんなにはできない技があって、それがしっかり見えていればタイトルを獲れるし、スポンサー契約の話もついてくる。そうなるとBMXにかける時間を余計に増やせるし、海外の大会にも行ける。でもタイトルって賞味期限があるんですよ。すべては点と点で繋がっていますが、タイトルを獲るためだけに自転車に乗るのは違うなと思っています。メディアにもっと出たいという思いは一切なくて、どうやったらスポンサーが喜ぶような活動ができるんだろうと考えていました。
日本大手企業がストリート系のジャンルでスポンサー活動するのは珍しいことのように思うのですが、スポンサーは内野さんの魅力をどう捉えていると思いますか?
僕をスポンサーしてくれているパナソニックはオリンピックの公式スポンサーをしていますが、ストリート系のジャンルをスポンサーすることはめったにないんです。そんな中LUMIX(ルミックス、同社のカメラブランド)との契約が決まったのは、僕のBMXライディングをたまたま部長さんが見て、鮮やかな動きに感動したと声をかけてくれたのがきっかけでした。僕はBMXだけではなく、スケートやダンスとかストリートカルチャーの全部を代表してリーダー格になっているので、そういった影響力みたいなものも含めて、内野洋平というひとりの人間を応援してくれているんだと思います。
内野さんのような選手になりたいと思っている若い子たちはたくさんいると思います。
BMXフラットランドは40代の世界トップクラスがいるくらい競技としては選手寿命が長いんです。僕は今35歳ですが、他の業界で同世代の奴らは選手を辞めていたりするので、その下の若い世代に相談されることも多いですね。
何かアドバイスはありますか?
今だから言えることですが、若い頃の僕はすごく力んでいて考えすぎていたと思います。BMXだけじゃなくてスケートでもダンスでも、まずは自分の好きなものを突き詰めて、誰にも負けないものにすることが大事。自分にしかできないものを生み出せたら「オンリーワン」になれるから。でも自分では自分のことをスポーツ選手じゃないと思っています。パフォーマーでもない。クリエイターが近いかもしれませんね。
近年オーガナイザーとしてもご活躍されています。ご自身が主催するBMXの世界大会「FLAT ARK(フラットアーク)」を開催されたきっかけを教えてください。
世界大会って色々存在するんですが、だいたい主催側は選手とまったくかけ離れた人たちなんです。お金を出すのは企業で、選手でもないし、ストリートの人間でもない。イベント運営の仕切りに選手が入ることはありますが、企業が自分たちの商品をよく見せて、売上げが上がるように大会の予算の割り当てを決める。ブランドにとってはひとりでも多くのお客さんに商品のファンになって帰ってもらうのが趣旨なので、それは当然のことなんですけど。だから選手が一番上に立って、大会での資金の使い道を決められればベストなんです。例えばバックステージにマッサージ師がいて自由に受けられるとか、水も冷たいのと常温が準備されているとか。そういう細かいところは絶対に選手しか気づけない。冬にヒーターが舞台裏になくて、カイロだけで出番待って、それで筋肉硬直して怪我したらどうすんの?って。
ライダーが最高のパフォーマンスができる大会の環境づくりをされているのですね。その他にこだわっていることはありますか?
1年目から変わらないのは、僕らの命であるステージのフロア部分です。バランスが取りやすいように出来るだけ硬くないといけないので、コンパネを普通の3倍の厚さにして、滑り止めの加工もしています。みんな何千時間、何万時間と練習してきたものをそこで発表するわけだから、自分も選手として立ちたいと思う舞台を作っています。
選手とオーガナイザー。一人二役は相当大変だと思うのですが。
そうですね、でも結構好きなんです。やってみたらその楽しさにハマっちゃって(笑)。大会の1週間くらい前から運営準備で僕は練習ができなくなるんですけど、その間に世界中のみんなは大会に向けた練習と調整をしてるわけじゃないですか。それでも僕に負けるっていう。ぶっちぎり感を見せるっていうか、「二枚も三枚も上手じゃ、ボケッ」って、普通に勝って優勝した時よりも断然に嬉しかった(笑)。1年目と2年目は優勝しましたが、3年目で負けました。周りにはオーガナイザーをしているから不利だとか仕方ないと言われましたが、それを言い訳にしたことはないです。そんなのはめちゃくちゃダサい。
FLAT ARKの大会にて。2015年(右上)、2016年(左下)、2017年(右下)
昨年はFLAT ARKに新たにスケートボードの世界大会「SKATE ARK」を加えて、「ARK LEAGUE(アークリーグ)」として大会を開催された訳ですが、反響はどうでしたか?
反響は想像をはるかに超えてすごかったです。運営陣には伝えていましたが、僕はFLAT ARKを始めた1年目から自分の中にARK LEAGUEのビジョンを持っていました。世界を代表するエクストリームスポーツの祭典は、アメリカで年に2回行われる「X Games(エックスゲームズ)」というエクストリームスポーツのオリンピックのような大会と、ヨーロッパで年に5回ほど行われるFISEという大会があります。X Gamesは一度アジアに進出したけど撤退してしまい、FISEも日本での開催を試みていたようですが、場所を変えての開催となると実現はなかなか難しいようです。だから僕が2つの大会に続くアジアの大きな大会、ARK LEAGUEを作ろうと思っていたんです。
アジアを代表するエクストリームスポーツの祭典に進化する第一歩を遂げたというわけですね。
僕はX Gamesの経験はなく、FISEには何度も出場していますが、どっちの大会も見ていて残念だなって思うところがありました。ARK LEAGUEではその点を選手目線で徹底していこうというのがポイントです。X Gamesは資金力のあるESPN(イーエスピーエヌ、アメリカ国内最大のスポーツ専門テレビ局)によって大きく広がったんですが、BMXやスケート以外にもすごい数のジャンルをやるんです。アメリカとヨーロッパで競技の内容は違いますが、だいたい平均10くらいあります。だから一つのジャンルに対する思いが薄すぎる。例えばその内の一つだけ見たら全然世界大会にはおよばないクオリティーだったりするんです。
今後ARK LEAGUEにスケート以外のジャンルも加わっていくのでしょうか?
僕はBMXフラットランドの選手なので、まずはFLAT ARKを世界一の大会にするのを目標に4年間続けてきました。そして賞金内容もクオリティーの高さも世界最高峰と評価されたので、ARK LEAGUEという次のステップへ進むのを決めたんです。スケートはまだ昨年が一年目なので、3つ目の競技を増やすのはまだまだ先ですね。世界トップクラスのスケートの大会と言われるようになってから次に行こうと思っています。時間はかかりますが、それぞれのジャンルで確実なブランディングを作るのが先で、一気に競技を増やすことはしないつもりです。
ちなみに大会名に入っている「ARK」にはどんな意味が込められているのですか?
ARKは箱舟という意味なんですが、「FLAT ARKがフラットランドのカルチャーを次のレベルに連れて行きますよ!」という意味合いを込めています。
ところで、ストリート業界で大会の賞金額が600万円というのは桁外れな金額だと聞きました。
ARK LEAGUEでは、BMXはそれまでも賞金600万円という設定で大会を運営していたので、優勝賞金が500万円、優勝以外の11人に全員10万円ずつとしています。スケートに関しては、SKATE ARKのアドバイザーである瀬尻稜選手の意見を尊重して、1位は200万円、2位は100万円、3位は50万円、4位に30万円としました。ルールはそのシーンによって違います。それが素敵だと思うし、僕にとっても勉強になります。
ジャンルが違っても、お互い理解があるからこそできることですね。
SKATE ARKでも全体の運営や細かいところは僕が仕切りますが、ルールや選手の選出はスケート選手が決められるようにしています。BMXライダーが作ったらニセモノになってしまう。「ライダーによるライダーのための世界大会」っていう大会のコンセプトがあるんです。オーガナイザーも選手であり、その選手が世界から集まった選手のためにやる大会。選手のボルテージを一気に上げて、その“ウォー”っていう気分や雰囲気がお客さんに伝わる。そしてその熱がスポンサーにも伝わるという選手発信の大会なんです。
少し話題を変えますが、社会で起こっていることで、気になることはありますか?
2020年の東京オリンピックが決まって、それを良いとも悪いとも捉える人間がいて、それに僕たちの業界もちょっと揺さぶられています。僕がやっている競技とは違うんですけど、BMXのストリートパークがオリンピック競技に加わります。僕がやっているフラットランドは、2024年にパリで行われるオリンピックの競技候補にあがっています。
内野さんは出場を考えているのですか?
オリンピックを特別に考えなくてもいいんじゃないかなっていう気持ちはあります。世界大会が一つ増えたっていう考え方の方が、今の僕らのシーンにとっては受け入れやすいと思います。オリンピックって世の中は騒ぎますけど、BMXはまだまだそこについていけるような業界ではないので、それだけしか見ないっていうのはまた違うかなと思います。大きな大会が一つできて、それに向けて頑張るだけです。
他人が思う自分の像と、実際の自分自身との差があると感じる部分を教えて下さい。
僕は非常に少ないと思います。昔からこのままの性格なんで、言いたいこと言っちゃうし、すぐ態度に出ちゃうし。いい意味でも悪い意味でも「マジ変わらん」って言われます。
一気に視界が開けた瞬間や、自分が成長したと実感した出来事はありますか?
3年前にやっていたことを自分の中で恥ずかしいとか、見たくないと思うのは、常に前に進んでいるからだと思います。FLAT ARKの1年目は、「やりきった、こんなすげぇ大会はない。最強や」って思ったけど、今思えば規模は小さいし会場もスカスカだった。気づくことがどんどん増えて、勉強することも多くて、具体的にと言われるとありすぎてわからないくらいですが、ほぼ毎日成長していると思います。
内野さんにとって、成功とは何ですか?
僕は自分が成功してるって思ってないので、その質問に答えられるかわからないですけど、成功は多分気づいたらしてるものじゃないかなって思います。いろんな成功例があるけど、自分じゃなくて周りが決めることかな。僕も周りから「成功したね」「ビッグになったね」とか言われることがありますけど、そんな気はまったくなくて。でも周りからそう見えるってことは、少なからず小さい段階を登っているのかもしれないです。もっとこれからだと自分では信じています。僕の中で成功というのはゴールに聞こえてしまうんですよ。そもそもゴールが見えていたらそれに合わせてしまうし、常にがむしゃらに走り続けている方がいいなと思う。ゴールまであと何キロとかわからない方がいいじゃないですか。
3年後、5年後、10年後の自分はどうなっていると思いますか?どうしたらそれになれると思いますか?
苦手な質問ですね(笑)。多分今と同じように活動はしていると思うし、仲間と一緒に業界をかっこよく盛り上げて、大きくしていこうっていうコンセプトは変わらないと思います。今やってることがすごく小さく見えるような3年後、5年後、10年後であってほしいなっていう風には思います。