ON COME UP
#53 | Apr 13, 2021

“ヤングトウカイテイオー”の異名を持つラッパーが見据える、日本のヒップホップシーンの変化。トップでい続けるために必要なこととは

Text & Photo: Atsuko Tanaka

今回のゲストは、高山出身で現在は名古屋を拠点に活躍するラッパーの¥ellow Bucks(イエローバックス、通称バックス)さん。バックスさんは、野球に没頭した小学時代を経て、中学生の時に出会ったヒップホップに魅了され、ラッパーを目指します。高校卒業後は仕事の傍ら地道に音楽活動を続けて、次世代のラッパーを発掘する人気番組「ラップスタア誕生!」のシーズン3に出場し見事優勝を果たしました。その後、仲間と「To The Top Gang」というクルーを築き、インディペンデントなスタイルでEPやアルバムなどを出し、着実に人気ラッパーとしてキャリアを積んでいます。“ヤングトウカイテイオー”の異名でも知られ、現在日本のヒップホップシーンの中心に立つ彼に、幼い頃のことから学生時代に経験したラップにまつわる話、活動してから「ラップスタア誕生!」優勝に至るまでの出来事、現在のヒップホップシーンについて、また、ラッパーとして思うことや、今後の夢などを聞きました。
PROFILE

ラッパー¥ellow Bucks

岐阜県高山市出身。1996年生まれ。16歳の頃Young Bustaとして3MCで活動を始める。解散後、¥ellow Bucksへと改名しソロとして活動を始める。楽曲はもちろん、ルックスやLife styleからもHip Hopを感じる漢の1人。十代の頃は単身渡米し本番USのニオイを嗅ぎ地元高山で精力的に活動を続る。'19年 Abema TV主催の「ラップスタア誕生シーズン3」にて見事優勝を果たし、彼の知名度を一躍全国区へと押し上げることとなった。過去には、EP 4作 シングル 4作 客演 20作その他イベントの主催、ライブ配信活動などと動き方も多彩。'20年8月には自身初のフルアルバム「Jungle」をリリースし、さらに勢いを加速させている。客演では、AK-69 DJ RYOW, Zeebra, 般若などの日本が誇るトップアーティスト達と肩を並べている。彼が自称ではなく”ヤングトウカイテイオー”であることを名実とともに確実に証明していく。運と実力を兼ね揃えたJapanese Hip Hop Dreamを体現する彼の今後に目が離せる訳がない。

¥ellow Bucks/イエローバックス

―どんな子供で、何をするのが好きでしたか?

あまり覚えてないですけど、ネガティブな感じではなかったと思います。どっちかって言うと上向きなタイプ、“人差し指上向いてる系”男子(笑)。字を書くのがわりと上手かったみたいで、小2の頃から習字を習って、あと野球が好きだったから、小3で学校のチームに入ってずっとやってました。

 

小さい頃。幼なじみののBUGGY-Tと

その頃の将来の夢は?

最初は消防士。「(救急戦隊)ゴーゴーファイブ」のテーマが消防車だった時があって、それを見て憧れて。その後は野球選手になりたいと思ってました。

 

―ご両親はどんな方で、どんな育てられ方をしましたか?

父ちゃんは厳しかったです。母ちゃんは気配りができる人で、スーパーいい親でした。俺が小学校低学年の時に離婚して、シングルマザーでめっちゃ忙しいのに、野球の試合にいつも来てくれてたし、弁当もいつも作ってくれて。

 

―中学時代はどんな日々を送ってましたか?

中学は、野球部の先生がすげぇ厳しいって聞いて、入るかどうしようかめっちゃ悩んだんですけど、結局やったろうって入りました。俺はセンターを守ってて、ある時練習中に同じポジションだった同級生がグラウンドに足で AK-69って書いて、「知っとる?」って言ってきて。俺は知らんと思って、練習後に曲を聴かせてもらったら、それが小5の時に姉ちゃんに聴かされてた「Ding Ding Dong」で。「お〜知っとるわ!」ってなって、そこからズボズボとヒップホップにハマっていきました。それが中2になる少し前くらい。

 

―その頃はまだ自分でラップをやることはなく、ただ聴いてただけですか?

まずAKさんを知ってそれからファンになって、他にも色々聴くようになって、野球より音楽にかける比率の方がだんだん大きくなっていきました。そうしたら地元の先輩にラッパーとしてデビューした人がいるって話を聞いて、できるんやって思って自分もリリックを書くようになって。書いたリリックをメールでツレに送って、「何分以内に返せよ」みたいな風にしてやり取りしたりしてました。

 

―その後、高校では野球は一切やらず、ラップに専念した感じですか?

野球はなかったかのように、全くやらなかったっすね。当時地元にS&Sっていう服屋さんがあって、そこで働いてた2コ上のシンシアっていうラッパーの先輩にめっちゃ憧れて、その人が通う高校に行こうって友達と決めたんです。ラッパーがいっぱいいる学校で、俺はその先輩に可愛いがってもらって一緒に遊んだり、あとはツレ達とYoung Bustaっていうクルーを作ってイベントに参加したり、自分らでもやったりして。Young Bustaは最初3人で始めて、4人でやってた時は一番ゴリゴリの時期でした。めっちゃフェイクチェーンつけて、全身真っ白な格好したりして、田舎町で超イケイケで(笑)。

 

左:高山で活動していたイケイケの頃 右:自主イベントのフライヤー

―イベントはどんな内容のものをやっていたんですか?

日曜とか学校がない日の昼間にやって、俺らがメインで出て、DJもいてみたいなやつ。まだ高校生で、自分たちでイベントを作らないとラップできるところがなかったから、そういう場を自ずと作ってた感じです。狭いハコでやってたけどパンパンで、でら人気でしたよ。イベントに地元のヤンキーが来ると、ステージから煽ったりしてました(笑)。

 

―高校卒業後はどんな風に活動していったんですか?

Young Bustaはメンバーの入れ替わりが続いたから、そういうのに疲れちゃって一人でやろうって思って、Young Bustaって名前は好きだったし、当時YBって呼ばれてたから¥ellow Bucksに変えて、周りでラップを続けるヤツとイベント打ったりして活動を続けてました。それで、卒業した年の秋くらいにニューヨークに行ったんです。

 

―何かきっかけがあったんですか?

シンシアが、俺が高2の時にニューヨークに3ヶ月行って、それに影響されて俺も卒業したら絶対に行くって決めてて。居酒屋でめっちゃ頑張って働いて70万くらい貯めました。そんな感じで前からニューヨークみたいなバカでかいところを目指してたから、高山は物足りないって思ってたのもあって。こんなんじゃダメだって高山のシーンについてボロクソ書いてインスタにアップして、めっちゃ炎上したこともありました。

 

ニューヨークの地下鉄で

―ニューヨークでこれは成し遂げたいみたいな目的は持ってましたか?

何か形に残さなって思ってたから、とりあえず誰かと曲をやりたいと思って、ブルックリン、クイーンズとかブロンクスとかの若いラッパー30人くらいに、ようわからん英語でインスタでDMしました。 そうしたら一人だけブルックリンのヤツから返事が来て、俺はヒップホップをやりたくてこっちに来たってことを伝えたら、ビートが送られてきて。それに乗せて24小節書いて来いって言われて、ラップを書いて後日会ったんです。スタジオに行って一緒に曲を作って、いいやんって言ってくれて、俺がいる間にあと2曲作ろうってなって、俺は1曲できるだけでも奇跡と思ってたからめちゃ嬉しくて。それで俺のやりたいビートと、そいつのやりたいビートで、合計3曲作ったんですよ。

 

ニョーヨークのラッパーと作った曲が入っているミックステープの表紙。自分で作り配っていた

―さすがの行動力!他にはどんな経験をされました?

ニューヨークで絶対クラブに行きたいって思ってて、でも当時まだ19歳だったから入れるイベントが全然なくて、やっと見つけたブルックリンのオールエイジのイベントに一人で行ったんです。そうしたらすごい長い列で、並んでる途中でチケットが売り切れちゃって。どうしようと思ったけど、出てきた白人に声かけてリストバンド をもらって入った。イベントは楽しかったけど、帰りに迷子になっちゃって、たまたま横を通ったスケボーに乗った黒人を呼び止めて、わけを話したらそいつが家まで送ってくれることになりました。それでそいつと仲良くなって、スケーターでカメラマンもやってたからMVが撮れるってなって、1本撮ってもらうことになったんです。

 

―これまた運が良いですね。それで色々成果を作った後、日本に戻ったんですか?

自分の中では想像してたより結構やれてね?ってなって、日本に帰って、また活動を始めて。ちょうどその頃俺の一コ上とかタメぐらいのヤツがラッパーとして活躍しだした時期だったんで、そういうのを見てヤバイなっていう焦りはありつつも、音楽だけでは食えないから、解体とかの仕事をしてって感じでした。その頃は、憧れだったシンシアもラップを辞めてたし、他にお世話になったGLKっていう高山のDJのドンみたいな先輩もシーンから退いてたから、地元のヒップホップ界隈でついていく人がいなくて、レゲエの人たちにお世話になって活動してました。

 

―ちなみにその頃から名古屋でも活動することはあったんですか?

高校の時からライブで呼ばれてたこともあって、ツテはありましたけど、GLK が名古屋とめちゃくちゃ繋がりが強い人だったので、当時尾張小牧で人気の「ONE SIDE GAME」っていうイベントの話を振ってくれて出ることになったんです。ちなみにそのイベントの主催者が、今一緒にやってるヤス君(K-DOG)なんすけど、その会場の駐車場で黄色のポンティアック カタリナの66年式を洗車してたヤス君に、「駐車場って、ここであってます?」って挨拶したのが彼との初めての出会い。

 

K-DOG(写真真ん中)と

―なんだかMV の冒頭シーンみたいですね(笑) 。それでライブの方はどうでした?

ライブは良かったけど、その日は案の定先輩達に飲まされてコテンパンにやられて、帰り際に事故っちゃったんです。GLKが名古屋のラッパーの人がやってる車の会社で働いてたから、ソッコー電話して色々助けてもらって、なんとか大事にならずに済みました。でも、買ったばかりだった俺の車は廃車に。だけど、なぜか保険で120万ぐらい戻ってきて。それでその金でどうしようか考えて、その頃住んでた家で揉め事もあったんで、またニューヨークに行こうって決めたんです。それが21歳の時。

 

―それで再びニューヨークへ。その時は目標にしてたことは何かありましたか?

今度はMVを撮りたいと思って、ニューヨークだけじゃなくてLAでも撮りたいから、まずLAに5日間行きました。それで日本にいた時にコンタクトしてたビデオディレクターに「Saturday」って曲のMVを撮ってもらって。その後ニューヨークに行って、その時は2回目だったから普通にニューヨークライフを送ってみたかったし、とりあえず働こうって思って、日本のキャバクラでボーイをしました。そこで働いてる人に色々教えてもらったり、地元の人に紹介してもらった広島出身のDJと繋がったりして、ニューヨークの日本人コミュニティにおりながら、音楽をやるみたいな感じでしたね。「Yellow Way」って曲のMVも撮りましたよ。

 

―帰国後はどのように活動を進めていったんですか?

家族と喧嘩して日本を出ていったから帰る家がない状況で、とりあえず父ちゃんサイドの婆ちゃんちに転がりこんで、音楽をやりながら土方のバイトをしてました。海外帰りみたいなアフロの髪型してたし、爺ちゃんに、「夢を追うのはいいけど、もっと考えろ」ってでら怒られて。それから爺ちゃんとの仲がどんどん悪くなって喧嘩が増えていったら、ストレスで婆ちゃんが入院しちゃって。こんなんじゃおれんと思って家を出て、その時も俺はまだレゲエチームのメンバーだったから、そのチームのスタジオに住まわせてもらうことになって。毎日土方の仕事して、帰ってきたら朝までスタジオに籠もっていろんな曲作って、ちょっと寝てまた仕事行って、そんなことを繰り返してました。でも、だんだんとこんなことやっとってもしょうがないって思って、東京に行くことも考えたんですけど、名古屋にライブに呼ばれることが多くなって、当時彼女もできて、行く機会がだんだん増えてたんで、名古屋に移ることにしたんです。

 

―名古屋に移って、どうでしたか?

音楽のツテはあっても、食ってくための仕事のツテはなかったので、とりあえず派遣会社に入って。でも結局どの仕事も続かなくて、住んでた寮にも居れなくなった。それで、彼女が住んでた保見団地に転がり込んで、友達が働いてたバーで働きだしました。昔からの知り合いだったPlayssonも保見団地に住んでたから、彼と曲を作るようになって、それがめっちゃ楽しくて。めちゃくちゃやばい5曲を入れたCDを作って、クラブに遊びに行った時にそれを売ったらいい感じに売れ出して、名古屋のストリートシーンでいいぞ!ってなっていって。

 

名古屋の仲間たちと

ー自分の中で手応えを感じてきた?

ですね。街がざわついてるとかは考えてもなかったけど、自分でもいい曲できとると思ったし、YouTubeの再生回数とかもめちゃ伸びてきてたし、ライブにももっと呼ばれだして。それでラップスタアに申し込んだんです。金もなかったし、賞金300万って見て、「やる!」って。

 

―それで優勝されて。

決勝のステージをやり切った後、勝った!と思いました。勝ってなくても自分の中で満足できるステージでした。勝った時はソッコー母ちゃんに電話しましたね。「おかん、勝ったぜ!」って。そうしたら母ちゃん、クソ泣き。それで高山も名古屋も、やばいぞーってめっちゃ盛り上がって。高山は街自体が山の中で孤立してて、あそこだけのシーンがあるし、俺はそこからポンって出てきたヤツなんで、みんな応援してくれるんですよ。高山、名古屋、ひっくるめてトウカイを上げてかなきゃなと思った。

 

―いいですね。そして優勝した後はどういう風に動いていったんですか?色んなレーベルから声はかかりましたか?

レーベルからは全然こなかっすね。でも色んな人から連絡が来て、その中に高校の時から知り合いだったKojoeさんがいて。スタジオに行って色々喋ってたら、ラップスタアでやった曲も入れてEPを出せばいいってアドバイスをくれて、リリースの仕方とかも全部教えてくれました。それで、あのラップスタアでの曲のタイトルを考える時に、自分の中ではずっと「ヤングトウカイテイオー」がいいって思ってたんすけど、名古屋の圧がヤバイから迷ったんすよ。でも周りの友達に相談したら、大丈夫っしょ、やっちゃえってなって、俺もそうだよなって思って出したら結構賑わって。それがDJ Ryowさんの目にもついて、ラップスタアに勝ったらビートをお願いしたいっていう約束もしてたんで、「Grow Up」 っていう曲のビートを作ってもらって。それがでらバズって、ぼちぼち名前が上がっていくようになりました。

 

 

―そうやって、ご自身を取りまく環境がどんどん変わっていった感じなんですね。

徐々にですけどね。ラップスタアで勝ったからってすぐ今の位置に行ったわけではないし、優勝した時は知名度はまだそこそこで、そこから頑張っていかなきゃいけなかったから。それで名古屋のクラブで出会ったタイミと、沖縄出身のTee、地元の後輩でDJ のSIDを彼が当時住んでた沖縄から呼び戻して、To The Top Gangっていうクルーを作りました。

 

ちなみに、To The Top Gangの名前の由来は?

最初は名前決めれなさすぎて、No Name Gangだなとかノリで言ってました(笑)。 でもある時、To The Top Gangが降ってきて、そうなりました。多分TOPからの贈り物です。

 

To The Top Gang結成当初。左から、タイミ、バックス、SID、Tee

―では、これまで起きた変化の中で特に印象に残った出来事って何かあります?

ラップスタアで優勝した後に、地元の年配の人が見る小さな新聞に載って、そこで婆ちゃんと爺ちゃんが優勝を知ってソッコー俺に電話してきたのを覚えてます。その時、「あん時は怒って悪かったな」って言われたのは頭に残ってますね。

 

―いい話ですね。では、曲を作る上で大切にしてることを教えてください。

その曲その曲で大切にすることがあるけど、とりあえずいいラップしよう、みたいな感じですかね。

 

―リリックはどのように考えますか?いつも常に書き留めてます?

思ったら書いたりはしてます。歩いてる時とか、お風呂に入ってる時に思いつくことが多いすね。リリックを書く時は、まず一つのテーマを決めて、それに寄せていく。それに日本人特有のスラングを入れたりフローを使ったり、アメリカでウケてる感じを入れたり、その辺の要素を全部ひっくるめて答えを出すみたいな感じです。最近はあまり書けてなかったんですよね。適当にだったら書けるけど、それは違うし。書ける時と書けない時がありますね。

 

―書けない時はどんな時?

俺が思うに、書けない時は書かなくていいって思い込ませてる。それに、単に他のことや仕事に追われてて書けないこともある。ただ曲作ってるだけじゃここまで来てないし、曲を作らない時もGAME中。書ける時に書くのが1番いいですね。

 

―ところで、バックスさんは昔のヒップホップとかも色々聴くそうですけど、好きなラッパーとか参考にしてるラッパーとかってその時々で変わる感じですか?

そうすね。今は特にこれといったラッパーはいないけど、昔のギャングスタラップばっかり聴いてます。ギャングスタラップは、もともと俺が中学生の時からめっちゃ聴いてたんですよ。ツレの兄ちゃんで、超ギャングスタラップおたくみたいな、気狂いなくらいレコードを持ってた人がいて、その影響で。

 

―今日本のヒップホップシーンの中心にいますが、どのように感じてますか?

今はSNSでいろんな情報が入ってくるからいろんなものが正解じゃないですか。だから同じ時代に、俺みたいなやつもいれば、舐達麻みたいなラッパーもいて、シーンが成り立つんだと思うし。一時期ロックとトラップが一緒になってみたいなこともあったけど、そういうのが生まれたり繰り返しての今だと思うんで、ごちゃ混ぜになるけど割とヒップホップはヒップホップってなってるから、いいのかな。

 

―シーンはこれからどのように進化、変化していくと思います?

流行りって繰り返すことがあるから、多分これからはDJ系の人たちがラッパーと曲を作ってDJ名義で出すみたいなのが増えていって、一気にバーンって盛り上がる。でも、またレゲエよりになったりするかもしれない。日本のヒップホップは、今ここまで来て、昔の時代よりも今生きてるヤツらに結構染み込んでるし、今後そんなに落ちることはないと思ってますけど、どうなんすかね。日本のロックみたいな感じになっていくのかな。わからないけど、俺はやりたいことがあるから、やりたいことをやってシーンにいれたらな、みたいな感じです。

 

―シーンのトップにい続けるために必要なことってどんなことでしょう?

(自分が)トップだと思うこと。小学生で野球やってた時に、コーチから教わったことなんですけど、自分がブースに立ったら自分が一番うまいと思えって。逆に、下ろされた瞬間一番下手だと思えって。だから地元でラップやってた時もそう思ってやってました。

 

―では、これだけは絶対他のラッパーに負けないと思う点は?

かけてる想い。他の人はどうなのかわかんないすけど、俺はリリック書いてなくても、ラップをやってない時でも、いつでもどうしてもヒップホップだもん。最近俺らみんなでチャリを手に入れたんですよ。めっちゃカッコいいチャリなんすけど、みんなドレッドで、背中にTTTG(To The Top Gang)背負って、ゴリゴリ走ってる。 何もしてなくても普通にヒップホップだから、大丈夫。

 

―バックスさんのラップスタイルを一言で表すとしたら?

“Just do it”みたいな、ただやるだけって感じかな。

 

―日本人でも外国人でも、今後一緒にやってみたいラッパーとかプロデューサーはいますか?

めちゃくちゃいっぱいいます。日本人ならLEX、BAD HOP、Awich、舐達麻やその他にも沢山いますよ。あとはRyowさんとかはこれからもずっとやってたいすけど、他も、ヤバイ人たちなら誰でもやりたいです。海外だとスコット・ストーチ、Dr. ドレとか。

 

―スコット・ストーチ!いいですね!どうやったら彼らのようなビッグプロデューサーとできますかね?

本当に。でも簡単に実現されても困るんで、手こずるくらいでいいんですけど。まあでも、そういう人たちとやるのも、今の延長線上にあるような気がするんですよね。自分の周りの出来事にちゃんと目を向けて、ありのままやっていけば、遅かれ早かれそういう時が来るのかなって。だから焦ってもないし、絶対に来ると思ってる。

 

凱旋MC battle Specialアリーナノ陣でのライブ

―では、理想の男性像やかっこいいと思う人の言動を教えてください。

近くで言うと、ヤス君。男気あるし、常に笑ってられる。ふざけてる中に冷静さがあって、問題を片付けてくところが魅力ですね!いろんなカッケー漢(おとこ)達から良いところを盗んで自分のものにしていきたい。

 

―チャンスと聞いて、どういうことを思いますか?

チャンスは自分で引き寄せるもの。何か改めてみたいな感じで来るじゃないですか。ある意味俺は常にそういう何かを待ってます。それが来たらそれをピックするのもしないのも自分次第ですけど、ピックしたらそこでそれをどうかますのか、みたいな。例えば何かの仕事を受けた時に、俺はどうやりきるのか、見せられるのか、そこですかね。ピックしないやつもたまにはありますけど、それはそれでいいと思う。

 

―成功する人としない人の違いはどこにあると思いますか?

とにかくなんでもいいから目標に向かって頑張ろうとしてるか、してないか。それだけだと思う。

 

―バックスさんにとって成功とは?

難しいすよね。でも俺は成功してると思う、ってか思ってなきゃおかしい。ヒップホップだけやって飯食えてる。成功してるすよ。してるけど、そこからが大変なわけで。でも逆に、成功しようとか思ったことはないです。充実させようとは思ってるけど。

 

―バックスさんのようなラッパーになりたいと憧れる若者は多いと思いますが、彼らにアドバイスをするとしたら?

よく聞かれるし、人によると思うけど、かっこつけたり無理に気張ったりせずに、今やらなきゃいけないことをちゃんとやって、チャンスが来た時にそれに従って自分のやりたいことを当つけていけば、うまくいくと思う。そう信じてやっていれば、失敗しても別にいいと思えるだろうし。

 

3510年後の自分はどうなっていると思いますか?

想像したこともないすね。子供いるのかなとか思いますけど、自分自身は絶対何も変わってないと思う。ラッパーとしては、アメリカにも憧れるけど、 例えばLAのラッパー、ニューヨークのラッパーっておるように、世界を一つの国で見て俺は日本っていうエリアのラッパーとして、仕事で海外に行けるようになったら現地のラッパーと仲良くなって、そのラッパーが日本に来たら俺が世話したりして、「日本にはイエローバックスがいるから大丈夫」って思ってもらえるような存在になれたらいいですよね。

 

―最後に、今後の夢を教えてください。

夢はいっぱいあります。日本語ラップでTy Dolla Signにフックをやってもらうとか、あとはクリス・ブラウンは昔から聴いてて、あの時代の成功してるラッパーがクリスとやってるみたいなのが自分の中に深くあるから、アイツとはやってみたいと思いますね。それと、名古屋でヤバいスタジオを作りたいと思ってる。腕のいいエンジニアがいるんで、その人がいて、若いヤツらも使える環境にして、海外からアーティストを呼んで接待したり。理想としては、ヤス君が車のディーラーもやってるから、スタジオ、車屋さん、ガソリンスタンド、ガレージ、服屋を全部一つの場所にドーンとできたらいいんですけどね。それにクラブと飲食店もやりたい。

 

―いいですね、10年も経たないうちにやってそうですね。

やるっすよ、俺らのクルーはちゃんと組織化されてるんで。まずボスのヤス君がいて、次にアーティストの俺がいて、その下にTo The Top Gangのメンバーがいてみたいな。それにヤス君の下には別のストリート部隊もいるし、全部がしっかりしてるから、名古屋は安泰かと。

¥ellow Bucks Information