ON COME UP
#22 | Feb 14, 2017

本家ブルーノートに認められた初の日本人、ニューヨークで活躍するアフロのトランペッター・黒田卓也

Interview: Hamao / Text & Photo: Atsuko Tanaka

未来に向かって躍動する人たちをインタビューする“On Come Up”。第22回目のゲストは、ニューヨークを拠点に活躍するトランペッターの黒田卓也さん。12歳の時に兄の影響でトランペットを吹き始め、大学卒業後、ニューヨークのニュースクールのジャズ科に進学。卒業後は生活のために様々なジャンルの音楽をこなし、ホセ・ジェイムズとの出逢いをきっかけにブレイクする。2014年に本家ブルーノートから初の日本人としてアルバム「RISING SON」をリリースし、脚光を浴びた。また、昨年リニューアルされた報道ステーションのテーマ曲「Starting Five」は、黒田さん始めニューヨークで活躍する若手の日本人ミュージシャン達によって手がけられたものだ。同年の10月には通算5枚目となる「ZIGZAGGER」を出し、全国19箇所のツアーを行った。精力的に活躍を続ける黒田さんに、幼少の頃から渡米するまで、ニュースクール時代に学んだ大事なことや、ニューヨークで一流のミュージシャンから学んだ成功の秘訣、新アルバムやツアーを通しての手応えなどを伺った。
PROFILE

トランペッター黒田卓也 / Takuya Kuroda

1980年、兵庫県生まれ。 12歳からトランペットを始め、中学・高校・大学を通してビッグバンドに所属。学校ではカウントベイシー、グレンミラー などのレパトリーを演奏する傍ら、神戸、大阪のジャズクラブにて16歳から演奏を始める。 2003年に渡米し、ニューヨークのジャズ・スクールの総本山、ニュースクール大学ジャズ科に進学。在学時からSmalls, Blue Note New York、Radio City Music Hall、Knitting Factory、SOB’s、Joe’s Pub55Barなど各有名クラブに出演するなど、精力的に活動。 卒業後もニューヨークを拠点に、JAZZは勿論、アフロビート、ゴスペル、ファンク、ラテン、ソウルなど様々なジャンルに精通する。2010年には、自身初のリーダーアルバム“Bitter And High”をリリース、レコーディングメンバーと共に日本ツアーをし、その名を徐々に広げていく。 2011年にリリースした2枚目のアルバム“Edge”は JAZZWEEK.COMのTOP50 JAZZ ALBUMS で3位にランクインされ, アメリカ最大のラジオ局National Public Radio では“ディジーガレスピーを彷彿”と大絶賛される。 その頃にシンガー ホセジェイムスと出会い“Black Magic”に参加、正式にホセのバンドメンバーとして世界ツアーに同行、また2013年に発表されたホセのアルバム“No Beginning No End”のホーンアレンジを担当する。 2014年には名門ブルーノートと日本人としては初の契約を果たしメジャーデビュー作“Rising Son”, 2016年には西海岸の老舗メジャーレーベルより“Zigzagger”を発表。また、日本国内では報道ステーションの新テーマ曲をニューヨークで活躍する日本人グループ、ジェイスクアッドの一員として携わっている。 ジャズの枠を超えた幅広い音楽性から、DJ Premier, JUJU, CERO, MISIA, Antibalas, Orange Pekoe, Akoya など様々なアーティストとのコラボレーションを展開している。

黒田卓也

小さい頃はどんな子供でしたか?

家の中では偉そうにしてるけど、外に出たらだまっちゃうような内弁慶な子供でした。サッカーや野球とかスポーツが好きで、ゲームも好きだったので、バランス良く外と中で遊んでましたね。小学校の頃は音楽との直接的な繋がりは全くなく、学校でやる演奏会は下手ではないけど突出したものでもなかったです。勉強の方はずば抜けてもいないけど、下でもなく、国語は苦手で、どちらかと言うと理系頭だったかもしれないです。

ご両親にはどんな育てられ方を?

すごく生意気で口が達者な子どもだったので、母に偉そうなことを言った時には親父に厳しく叱られましたね。でも運動会で頑張った時とかは褒めてくれて、褒める時は褒めて怒る時は怒るような親でした。

ご兄弟とは仲良いですか?

5つ離れた兄貴がいて、すごい厳しい人だったので昔はよく怒られてました。兄貴はタッパもでかいし、怖いから喧嘩にもならなかったですけど。今は仲良いです。

12歳でトランペットを始めたそうですが、きっかけは?

兄貴です。兄貴は地元の私学のジャズのビッグバンドの部長でトロンボーンを吹いてました。僕は反発心もあったし、兄貴が怖いので入る気はなくて、スポーツが好きだったから、バスケとかサッカーとかモテそうなクラブに入ろうと思ってたんです。でも先輩の偉そうな感じが嫌でどうもしっくりこなかった。ある時、ジャズのビッグバンドの前を通ったら兄貴の同級生に見つかって、首根っこを捕まれて逆らうことも出来ずに連れて行かれ、トランペットが余っていたから吹けと。そこからです。

やってみてどうでしたか?

最初は音がすぐ出なかったけど、1時間頑張ったら音が出て、難しいながらも喜びを感じたのを覚えてます。出来ると達成感があるし、難しいからこそやってみたいと思うようになりました。

中学、高校、大学と、黒田さんにとって通っていた学校はどんな場所でしたか?

学校は自由で自主性を重んじる教育でした。先生にあれこれ言われることもなく、練習方法を自分たちで変えたり、みんなで研究して目標を決めたり、自分たちで物事を考えて決められたことは、何事にも変えられない財産になったと思います。自分達の信念というか非常に強い絆が出来上がったと思うし、中高大と通じて、似たような仲間と一緒に分かち合えたのは本当に良かったです。

高校2年の時に出場した「Student Jazz Festival」。毎年この夏の大会のために一年を捧げて練習した

学生の頃はミュージシャンとしてどんな活動をしていたのですか?

今はもうないんですけど、神戸にあったINDEEDというジャズクラブに高3の終わり頃から毎週行くようになって、大学生のお兄さんや若手のプロの人に混じって演奏する様になりました。他にも地元の神戸や大阪のジャズクラブのオーナーに目をかけてもらって、月に1回、ROYAL HORSEやLeft Aloneという所などでやってました。

Left Alonenにて。大学一年生の時に、同級生たちと組んだバンドでアマチュアジャズコンテストに挑戦

大学在学中にはバークリー音楽大学に留学されたんですよね。

大学3年生の夏休みに5-Week Summer Performance Programという現地の高校生を対象にしている夏期講習を受けました。日本にいた時は先輩に教えてもらったり、CDを聴いて真似をしたりしながら自己流で学んだので、この夏期講習が初めて正式に受けた音楽教育だったんです。正しい知識を得て、「なるほど、こういう仕組みだったんか!」と自分にまだ伸び代があることを感じて、その後は凄い練習量が増えました。

大学卒業後は、ニューヨークのニュースクール大学のジャズ科に進学されたそうですが、渡米しようと思ったきっかけは何だったのですか?

僕がバークリーに滞在した頃、いとこがニューヨークに留学していたので居候させてもらって、武者修行みたいに毎晩色んなジャズのジャムセッションを渡り歩いてたのですが、ある晩、クレオパトラズ・ニードルというジャズバーでとんでもない連中と遭遇してしまって。彼らが演奏をしていた曲は分かったけど、インプロビゼーションになった瞬間、フリースタイルの言語とかスタイルのスピード感に全く耳がついていけなかったんです。トランペットを持ってるのを見られたら来いよってなるから、ビビって椅子の下に隠しました(笑)。後で彼らと話してみたら、有名なわけでもないし、年齢を聞いたら19歳と言われて、参ったって感じでショックを受けて、その時にいつかまたニューヨークに来ようと思いました。

ニュースクール在学中に学んだ大事なことを教えてください。

理論とか本当にたくさんのことを学んで、メロディ感や特に作曲のスタイルが構築されていきました。あと、今は亡き僕の師匠のようなローリー・フリンクというトランペットの先生との出逢いや、ホセ・ジェイムズ、今の僕のバンドメンバー達と出逢えたことは本当に財産です。僕のニューヨークの全てがそこから始まりましたね。

New school時代に友達と回ったツアーにて

黒田さんの作曲のスタイルはどういった感じなのですか?

音楽をやっていない人でもメロディーが口ずさめる様な、頭に残りやすいものを作ることを心がけてます。メロディーの深さを示すのに、メロディーの下にとても複雑なコードを入れたり、面白いリズムを持ってくるような形でバランスを取っていて、ニュースクール時代に「セオリー&パフォーマンス」という授業で習った、率先してメロディーを変えずに周りの要素を変えるコンセプトを使ってます。僕は性格的にガツガツと前に出るのが苦手な方なので、さりげなさも音楽に現れていると思います。

曲が思い浮かぶ瞬間は?

バラバラなんですけど、朝に聴く音楽、昼に聴く音楽、女といる時の音楽、お酒を飲んでいる時の音楽とか、色んな場面で聴く音楽は違うから、それぞれの場面で考えるべきだと思ってます。夜中にみんなとお酒を飲んでいる時にキーボードに向かって出来た曲もあるし、締め切りが近づいていて無理やり作った曲もある。あと、僕は結構頭で考えることが多いので、歩いてる時に思い浮かぶことが多いですね。

学校を卒業した後、ミュージシャンとしてどの様に生計を立てていたのですか?

ジャズの仕事はほとんどなかったので、ゴスペルやサルサのトランペットのセッション、消防員が企画しているパレードに参加したり、あとは教えたりして生活してました。最悪の月もあれば、いけるかもと思う月もあって、長い目で見る余裕もないというか、毎日どうやって仕事を増やすかばかり考えてました。

目標にしていた人はいましたか?

トランペッターのキャリアとして目標にしていた人はいなかったですけど、音楽的にはロイ・ハーグローヴさんが大好きでよく見に行ってましたね。あと、色んな先人の言葉を常に頭に入れていて、まだ高校生だった頃、辛島文雄さんという素晴らしいピアニストの方に「明日、明後日にスーパースターになろうと思うなよ、5年10年見とけ」と言われて、その言葉はニューヨークに行った後も心に留めていました。

ニューヨークで大変だった時に支えになったことはどんなことですか?

自分のプロジェクトをやり続けていたことです。友達と組んだソウルジャズのバンドを続けたり、意地でも毎年アルバムを1枚ずつ出したりしてました。27歳だった2007年から2011年の間、日本で友達とレンタカーを借りて広島から東京まで12か所回って、規模は小さくても、“自分は発信してる”という気持ちが自分自身を支えていたと思います。もしかしたら自分は大成しないんじゃないかと思うこともあったけど、結局自分は他の誰にもなれないと考えて、大成功しなくても、やっていることに対する信念とやりたいと思う気持ちだけはずっと持ち続けようと思う様になりました。その後ホセ・ジェイムズに出逢って、キャリアが動き出したんです。

ニューヨークのサマーステージにて

ホセさんと出逢ったことがブレイクしたきっかけに?

はい。それまではジャズ以外のこともやって食いつないでいましたが、ホセのワールドツアーに立て続けに出る様になり、やっと自分が本当にやりたいことだけで生活出来る様に。と思いきや、僕がツアーでニューヨークにいないという噂が出回って、ツアーが終わった頃にはそれまで受けていた仕事が全部なくなってビビりました。ホセから「これからお前は自分のバンドを作って、リーダーとしてやっていけ」と言われて、ブルーノートの方を紹介してもらい、2014年の2月に「RISING SON」を出しました。でもブルーノートから出したと言っても、世界から見たら新人だし、ツアーを回ったらバンドメンバーにお金を払わないといけないから赤字ばかり。どうにか稼がないといけないけど、イメージもあるから何でも仕事を引き受ければいいってものでもないし、リーダーになることは大変なことなんだと思い知らされました。その後、やっと日本人コミュニティーでも名前が広がって、色んなご縁が繋がっていきました。

ニューヨークには才能あふれるミュージシャンがたくさんいますが、他よりも抜きんでるために、人一倍努力をしたことは?

一度、自分の長所と短所を冷静に見たことで、長所を伸ばせたことですかね。僕は高い音を出したり、派手な技術を駆使したスーパープレイをするというよりは、音色であったり、ジャズの伝統的な歌い回しや、ブルージーな歌い回しが自然に出来たので、そういうところをしっかり見極めて成長出来たと思います。ニュースクールのようなレベルの高い学校では周りの皆と技術の競争で、とても難しいと言われている曲をすごい速いテンポでやり切って脚光を浴びることもあるんですけど、そういった事が必ずしも人の心を打つかと言えば、そうとは限らない。僕は自分の音楽をどういう人にどう伝えたいのかを結構早い段階で分かっていたので、技術だけを追い求めて無駄な練習をあまりせずに済んで良かったと思います。

2016年4月から報道ステーションの新テーマ曲となった「Starting Five」は、黒田さん始め、ニューヨークで活躍される日本人の若手ジャズミュージシャンの5人がこの曲のためにバンド「J Squad」を結成し、それぞれが曲のテーマに沿ったアイデアを出しながら作成したそうですが、どんな点に注力しましたか?

それまではメンバーのそれぞれがかっこいいと思う音楽を自分たちのために作り続けていたのですが、あの時に初めて他の人が喜ぶものを作らないといけなかったので、そういう意味での難しさや葛藤はありました。すごい数の曲を提供して、何度もやり取りを重ねて大変でしたけど、やりがいがあったし、色々と勉強になることが多かったです。

2016年10月には通算5枚目となるアルバム「ZIGZAGGER」を発表されましたが、今アルバムを通して感じた手応えは?

凄く良いと思います。前のアルバム「RISING SON」の様な“ホセ・ジェイムズプロデュース”とか“ブルーノート日本人初”といった冠はないですけど、無いことが逆に地に足がついて、自分の音楽をしっかり聴いてもらって、気に入ってもらえたら買ってもらえるという勝負が出来た感覚はありました。昨年の10月から3ヶ月間、ツアーでヨーロッパ、アメリカのウエストコースト、日本と全国19ヶ所回りましたが全部大盛況で、明らかに前回のツアーと比べ物にならない手応えがありましたね。

ツアー中、楽しかったことや印象深かった出来事など教えてください。

ロンドンはすごく熱狂的に迎え入れてくれる街なので印象的でしたけど、全部が本当に良かったです。前回のツアーと同じ場所にも行ったけど、お客さんの入りも反応も前と全然違いました。ウエストコーストに自分のバンドで行ったのは今回が初めてだったんですけど、4講演中3講演がソールドアウトで、期待されていることを感じましたね。アメリカって大きい国だから、国内を移動するのにすごい交通費がかかるので、国内ツアーをするのが本当に難しいんですけど、自分で自分のバンドをサポートしながら、少しずつ築き上げていくことの大切さを感じました。

渡米して14年経ちますが、世界中のトッププレイヤーたちと一緒に仕事をしてきて、彼らから学んだトップでい続けるための極意などはありますか?

信念を強く持つこと。優しい、厳しいは別として、みんな自分のやっていることに関しては一歩も譲らないし、それに対する創造力への時間や努力を惜しまない。全て注ぎ込む覚悟が強いなぁと思いますね。

黒田さんがオリジナルでいるために気をつけていることは?

天邪鬼的なところは多少あっても、流行に流されないというか、流行にはあまり興味がないです。自然と自分の琴線に触れるものに常に素直でいる。自分からガツガツいくことはなくて、自分のフィーリングに素直に触れ合うものを柔らかく選んでいれば、自分らしいものが勝手に出来上がると思ってます。

最近、琴線に触れたことはありましたか?

フリーライブを昨年の12月に大阪の蔦屋と新宿駅前でやったんですけど、小学生や若い子たちが見に来てくれて、彼らが僕に心から会いたがっていたのが伝わってきて、ストレートな情熱を久しぶりに感じましたね。僕がやっている音楽は敷居の高いものでも取っ付きにくいものでもないので、若い子にもっと聴いてもらえるような機会を作っていきたいと思いました。

トレードマークのアフロ歴は?

2013年くらいからだから4年くらいかな。それまでは爽やかなパーマをあててましたよ(笑)。でもアフロの影響は大きくて、ホセの横で吹いてても、ホセより人気出たくらいじゃないですかね。というのは冗談ですけど(笑)、声はメッチャかけられます。

最近気づいた自分に足りないことは?

ペーシングが下手です。演奏の仕方にしても、生活のリズムや仕事の進め方にしても、何でもやり過ぎてしまうところがあります。無理難題なスケジュールの中でも、しっかりと自分が納得できるものや大切にしたいことを間に入れられるペーシングや作品作りをしていきたいです。

好きな映画、アート、本などで一番影響を受けたものは?

映画は デヴィッド・フィンチャー監督の「ザ・ゲーム」ですかね。心臓が飛び出るかと思うくらい、あんなにハラハラしたのは初めてでした。アートは特に好きなアーティストはいないけど、ホセのおかげで昔は苦手だった美術館に行けるようになりました。

若い頃聴いて衝撃を受けた曲、音楽を生業になったきっかけの曲を挙げるとしたら?

15歳くらいの時に初めて聴いた曲で、クリフォード・ブラウンの「Laura」という曲。鳥肌が立って、凄い衝撃を受けました。音楽が生業になったきっかけの曲の一つに、DJ MITSU THE BEATSがホセとコラボした「Promise in Love」という曲があります。僕はトランペットで参加したんですけど、イントロがいいと評価いただいて、初めて日本で僕の名前が出た曲です。

社会で起こっていることで気になっていることは?

アメリカの大統領のことしかり、韓国の大統領のことしかり、全体のパワーバランスがバラバラになっていて、何が起こっても不思議じゃない社会になったと思います。自分たちは今生きているから分からないかもしれないけど、100年後に今の時代を社会の教科書で見たら、とんでもない時代として書かれてもおかしくないんじゃないかなと。何でこういうことがまかり通るの?ということがありますよね。僕だけじゃなく、ニューヨークのミュージシャンはみんな言ってますけど、音楽は今から本当に必要とされる時期に入るだろうと思ってます。

自分のやっていることで、日本や世界が変えられるとしたら、どんなところだと思いますか?

僕らが今やろうとしているジャズを基軸とした音楽がもっと広がって、カルチャーとしてもっとリスペクトされて影響を与えられるなら、心の平和ぐらいは与えることが出来るかなと。僕はいつもドキドキしていたいので、その気持ちをうまく伝えられて、皆さんにもっとドキドキしてもらえたら良いなと思います。

他人が思う像と自分が思う像の違いは?

よく喋るし、友達とワイワイしたり、人を笑かしたりするのも好きで、どちらかというとうるさい方なので勘違いされることが多いんですけど、あまり自分が前に出たいと思うタイプではないです。

一気に視界が開けた瞬間や成長を実感した経験は?

ホセのツアーに参加した直後に、大きなフェスで憧れのロイ・ハーグローブの直後に演奏したことがあったんですけど、その時、スタイルとか表現の仕方とか、どうしたらいいのか分からなくなって自分を見失ってしまって。ツアーから戻ってきて、トランペットの師匠のところに駆け込んで、僕をどこへ行っても物おじしないトランペッターに特訓してくれと頼みました。そうしたら先生は、「トランペットの技術が凄く上がったからといって、あなたが素晴らしい音楽家になるというわけではない。素晴らしいミュージシャン、表現者が素晴らしいトランぺッターだとも限らない。それは似て非なるものだ」と言ってくれて、練習法や人に伝える意味、自分が自分でいられる精神性を教えてくれました。その時、それまでモヤモヤしていたのが晴れてバーッと開けて、それからは少しずつですけど、ホセのツアーに行っても自分自身でいられるようになり、ソロも取れる様になって、評価も上がっていきました。

ホセさんにまだ伝えていないことで、伝えたいことはありますか?

普通に「ありがとう」とかは言ってますけど、何でしょうね。「いつかゲストで凄い形で日本に呼んでやるよ」かな。ホセはキャリアのスタートが遅かったんですけど、無名の頃から日本の人達は彼の音楽を受け入れてくれたので、日本のファンに対して凄い思い入れがあるんです。だから、いつか僕の出来る全てを使って、僕とホセのプロジェクトで日本に呼べたらいいなと思います。難しいことじゃないですけど、正しいタイミングと正しい形で呼びたいから、ちょっと楽しみにしておいて欲しいですね。

黒田さんにとって成功とは?

第三者から見たら“ステータスを認められていること”が成功だと思うんですけど、自分の中では“やりたかったことをやり続けられること”です。そして、自分の信念や姿勢、情熱を持ち続けること。僕はトランペットをやって、ニューヨークに行って、凱旋出来て、感謝しかない状況なんですけど、結果や他人から与えられたステータスみたいなものに振り回されずにこれからも同じペースでやっていきたいと思います。

3年後、5年後、10年後の自分はどうなっていると思いますか?

3年後は精力的に今やっていることを進化させて、所狭しと飛び回っているような気がします。5年後はもしかしたらプレイヤーとしてだけでなく、プロデューサーとしても音楽シーンに良いものをクリエイトしているかもしれないです。10年後は一度原点に戻って、トランペットをじっくり聴いてもらえるようなコンサートを、ホールのような大きい会場で展開する時期になってるかもしれないですね。

取材協力:Bar BACKYARD

黒田卓也 Information

The Truth

TAICOCLUB'17

2017年5月27日(土)~28日(日)
長野県木曽郡木祖村 こだまの森

<出演アーティスト>
cero (JP)
Daphni (UK)
Motor City Drum Ensemble (DE)
NONOTAK (FR/JP)
黒田卓也 (JP)
and many more…


ビルボードライブ

ビルボードライブ大阪
2017年5月23日(火)
1st 開場17:30/開演18:30
2nd 開場20:30/開演21:30

ビルボードライブ東京
2017年5月24日(水)~25日(木)
1st 開場17:30/開演19:00
2nd 開場20:45/開演21:30