庄司夏子
―小さい頃は、どのような環境で育ちましたか?
生まれは千葉で、小学校の時に東京に引越しました。両親には、勉強しろとか言われることなく、基本的に放っておかれて生きてきました。母は、綺麗な箱やパッケージ、紙袋とかを集めていて、そういうものが幼い頃から私の身の回りに溢れていましたし、ファッションが好きになったのは母の影響です。兄弟は妹がいます。
左:昔から集めている箱の一部 右:今でも箱や袋欲しさにプロダクトを買うことがよくあると言う
―小学校時代はどんな子供でした?
勉強は全然しなかったですし、家が大変すぎたので学校のことはあまり記憶がないんです。 というのも、妹が知的障害者でして、施設に入るまで一緒に住んでいたので、当時は家の中がひっちゃかめっちゃかでした。 親もストレス溜まってるし、夜中まで騒いだりすることもあって私も眠れなくて、常に貧血気味で、よく学校の朝礼で倒れてましたね。
―とても大変な時期を過ごされたのですね。お料理に興味を持ったのはいつ頃でしょうか。
中学の家庭科の授業でシュークリームを習った時、オーブンの中でシュークリームのシューが膨れる瞬間にいたく感動したんです。それで家でかなりの数を作って、ちゃんと綺麗にできたものだけをお友達に配ったんですよ。 そしたら「なっちゃんはシュークリーム屋さんになった方がいい」って言われて。それでシュークリーム屋さんになろうと思って、調理科がある高校を探して進学しました。
―プロになると決心して、高校進学も料理の道へ進むことを決めたのですね。
そうですね。でも高校に入学して現実を知って、「一体シュークリームを何個売ればいいんだ?」と思ったら、その先のビジョンが全く浮かばなくて。それで一旦シュークリーム屋の夢は消え、高校では和洋中全部を習いました。その中で、当時流行っていたイタリア料理屋「タパスタパス」のカニクリームやトマトソースのパスタが美味しくて好きだったので、イタリアンに進もうと思ったんです。するとフレンチの先生から、イタリアンにもすぐ転向できるし、お菓子のテクニックも高いからフランス料理をやった方がいいって勧められたので万能なフレンチに進むことにしました。
―高校時代からフレンチを勉強したんですね。
和洋中全部を同時進行で習いながらも就職先はフレンチにしようって序盤に決めました。料理とは関係のない試供品を配るバイトをしつつ、制服を着たままフレンチの講師の先生が働いているお店に研修に通っていました。本当はそのままそのお店に就職する予定だったんですけど、そのお店の経営に問題があったみたいで、急に従業員が全員解散になって、内定が決まるシーズンに就職先がなくなっちゃったんです。
―そんな事件が起きたんですか。
それで学校の先生が、卒業生で当時カンテサンス(現フロリレージュのオーナーシェフ)の2番手だった川手寛康さんに私の就職先を相談してくださって、当時一つ星だった代官山にある「ル・ジュー・ドゥ・ラシエット」を紹介してくださってそのまま就職しました。当時一つ星で、お店はめっちゃ忙しかったです。
―高校卒業したばかりでミシュラン1つ星のレストランに就職となると、しばらくはお皿洗いなどをするのですか?
大きいお店なら、基本的に最初はオードブルからやって、お肉とか付け合わせをやって、お肉の火入れっていう感じに上がっていって、デザート担当は別にいることもありますが、そこは小さい店だったんで、洗いものはもちろん、デザート全部と上の人の補助もしないといけなかったんです。ランチのデザートは5種類の中から選べるコースをやっていたので、毎日仕込みが多くて大変でしたね。その後、その店のシェフがその会社から独立するタイミングで、川手さんが独立されてお店を持つことを聞いていたので、 私は川手さんのもとへオープニングスタッフとして就職したんです。
—川手さんのレストランはいかがでしたか?
新しいお店の立ち上げなので、オープンまでのセッティングもあるし、調理場スタッフが私の他にもう一人しかいなかったので、デザートだけでなく、他にも魚をおろしたり、ソースやオードブル系の仕込みもあったりして大変でしたね。 最初のお店とフロリレージュで働いていた 5年半ぐらいは、仕事以外の時間は料理の本しか見ていなかったので、娯楽には全く触れていませんでした。めげそうになってたし、体も辛かったんですけど、小さい頃から家族という核の部分ですごく辛い思いをしてたから、ただ自分が頑張れば解決する問題だと思って乗り越えましたね。でも普通に生きてきた人にとってはしんどい環境だったみたいで、私が働いている間に多くの人が辞めていきました。
―でも、だから庄司さんには今があるんですもんね。そこから程なくして独立されるのですよね?
意図して独立したわけじゃないんです。実は父がアル中だったんですよ。高校に入る時に妹を施設に入れたんですけど、今振り返ると両親も色々ストレスを発散しようと、父はお酒、母は洋服に走ってたんだと思います。それで父は、どんどん酒の世界に入っていってしまって。ある日母に突然、「お父さん、あと一週間で死ぬかも」って言われて。当時の私は朝早く出勤して夜中に帰って来て、そこからさらに料理の本を見て勉強してっていう生活で、脳みそが仕事マインドすぎて、一緒に住んでいたのに父が入院していることにも気づけなかったんです。母との会話も最低限だったし、仕事に夢中な私を見ていて父のことを言えなかったんでしょうね。アル中だったこともその時まで知らなかったんです。
—そんな大変な出来事があったのですね。
でも、店はすごく忙しいし、一人あたりの仕事の割り当ても多いから迷惑がかかるんで、父が危篤だからといって急に店を休むことはできないと思って。だからランチをやって夜の仕込みを完璧にして、たまにお見舞いに行くみたいなことしてたんですけど、結局仕事を最優先にして看取りには行けませんでした。父が亡くなり、「このままだと母にも同じことをしそうだな」と思って、1回料理人を辞めようと思ったんです。それで父の死から3ヶ月後にフロリレージュを退社して、とりあえず一回料理をやめてプータローになりました。もしお父さんが元気だったら、今でもフロリレージュにいたと思います。
―そうでしたか。 そこからどのように料理人に戻るのですか?
暇になったので少しの間、シェラトン都ホテルの四川料理の店でホールとしてアルバイトをしていました。するとある日、フロリレージュ時代にお世話になったライターの方から連絡があって、「なっちゃんのお菓子が忘れられない。なっちゃんの作る焼き菓子のケーキが食べたい」って言われたんです。私はとっさに「やります」って答えて、母校のキッチンを借りて、家のキッチンと往復しながら焼き菓子のケーキを作りました。それがきっかけで、自分の作ったもので人が喜ぶっていう原点に戻って、やっぱり食の世界っていいなって思ったんです。そうしたらどんどん出張料理とかをやる機会が増えて、バイトを休むようになっちゃって、もう家のキッチンだと限界で、これは独立するしかないと。それが22、3歳の頃です。
—でも、その若さで独立という流れになるのもすごいですね。
フロリレージュ辞めた当時、独立することは考えてなかったのですが、お店にご迷惑をかけて辞めている手前、次はもうどこにも修行には行けないと思っていました。それで、もう自分自身でお店をやるしかないと決心したんです。でも、女性で若いと融資がなかなか下りず苦労しましたね。人を雇うにしても、自分がまだ22歳で経歴もそんなになくて、男性や年上でキャリアのある人を雇うのは無理なので、とりあえず一人で始めようと思いました。フランス料理でそれなりのお店をやるのに通常必要な額って4千万円くらいなんですけど、結局借りられたお金は1千万円。その額でできる規模は何だろうと思って、マンションの小さい一室を借りて、お客さん用の大理石のテーブルとオーブンだけにお金をかけて、最低限の工事をして、一日一組限定のレストランをオープンしました。
—ケーキが誕生したのもその頃ですか?
フレンチレストランとしては、女性だし若いし、まだお客さんの集客が見込めないので、逆にその条件を活かしたオリジナル商品を作って有名になるしかないと思ってケーキを作ったんです。当時22歳の私にとっては、1千万ってとてつもない額だったので、大成功する世界へ行くか、死ぬかの2択だとその時に決心して、生命保険に入りました。失敗しても、死ねば親に担保として出してもらったお金も払えるじゃないですか。そういう気持ちで常に仕事をしていたから、一秒でも早く売れたかったし、一秒でも早く有名になりたかったんです。それに、若いことは有名になった瞬間武器になるっていうのはわかってたので、 その面白い存在にいかにしてなるかっていうのを考えて、常に無駄を削ぎ落として、いかに世間に認知されるかを考えて、とにかくケーキを早く世に出さないとって思っていました。
―ケーキは、どのようにして生まれたのですか?
レストランで働いてた時、記念日で来てくれたお客さんに、季節のフルーツを使ったバースデープレートを最後に出していたんですけど、お客さんが感動するのを見て良いなぁと思っていました。そういうもので、レストランの外でも表現できるものを作りたいと思ったのが始まりです。ケーキを作るにあたって食べ歩きもしましたが、どの店も、あの折りたたみの白いケーキの箱をパッと開けた時に、ショートケーキとかが窮屈そうに入ってるのに違和感があって。 自分はラグジュアリーの世界の箱とか袋を幼い頃から見ていたので、そことすごくかけ離れた世界だったし、私が見てきたものをケーキで展開させたいと思ったんです。基本的に私のケーキは、ジュエリーやファッションの世界から影響を受けています。例えば桃のコレクションは、シャネルのキルティングから、ぶどうはコムデギャルソンの水玉模様からインスピレーションを得て作ってるんですよ。
フルール・ド・エテ。左から時計回りに:マンゴー、ぶどう、いちご、梨
―幼い頃からの経験がケーキに集約されているなんて、本当に素敵ですね。タルトにした理由は何かあるんですか?
お菓子屋さんて、オープン時間に合わせて何十種類ものケーキを仕上げて、ショーケースに陳列するじゃないですか。でも、料理をやってた身としては、お客さんの食べる時間に合わせてライブ感のあるものを作りたかったし、ケーキの断面を複雑にするより、誰でもわかりやすいものの方が良いと思ったんです。そこで、3秒でわかるものを作らないと遠回りになると思って、日本の四季を象徴するフルーツを使ったタルト一点絞りにして、覚えてもらえるまではしばらく、マンゴーのバラのタルトだけを全てのメディアに出してました。そうしたらいつの間にかそれが認知されるようになって、テレビで取り上げてもらうようになりました。
—複雑なものよりシンプルなものの方が良いという考え方はどこから?
いろんなパティスリーのケーキを食べ歩いた時、どれも素晴らしい技術で、味も美味しかったんです。ただ、振り返ると、ケーキの細かいレイヤーがどうなっていたかまでは、ちゃんと記憶に残っていなかったんですね。でも私は、一般の人の記憶に残るケーキをどうしても作りたかった。そこで、覚えてもらうためにはどうしたら良いんだろう、その上で、私にしか作れないétéだって一目でわかる、とびきり美味しいケーキって何だろうとずっと考えていました。その結果、構造はよりシンプルな方向にするのがベストだと判断しました。
店の入り口近くにあるウィンドウには、庄司がインスピレーションを受けたものや、これまで仕事をしてきたブランドのプロダクトなどが飾られている
―色々試行錯誤して辿り着いたと思うんですけど、作っていて「これだ!」って、完成した瞬間って覚えてます?
誰もやったことのないケーキだから、自分がやりながら発見していくしかないので、第1段階、第2段階、第3段階的な感じで、完成したと思った瞬間からその都度すぐ発売して、売りながら進化させてどんどん変えていきましたね。 完璧は当然で、その先のさらなる高みを目指していくしかないし、それがétéの魅力だから。
―ところで、最近村上隆さんとコラボレーションしましたけど、それはどんな風に進んでいったんですか?
私が中学生の時に、村上さんとルイ・ヴィトンのコラボレーションを見て、頭の中に収まりきらない脳みそが飛び出してクリエーションしているような世界に衝撃を受けて以来、 いつか仕事したいって思っていました。時を経て、あるイベントでお仕事させていただいた方に紹介していただき、村上さんに私の料理を食べに来て欲しいと言ったら、本当にスケジュールを調整して食べに来てくださったんです。すると、 「これは美味しい、鳴り止まない拍手」って言って料理に感動してくださって。そこで私は、箱も飴細工も全て村上さんのために作っておいた特別なケーキを、最後にプレゼントしました。 そうしたら、ここまで本気でやってくれるなんて思わなかったと、せっかくだからちゃんとやろうって仰って。結局お披露目は、コロナの影響でインスタライブで行ないましたが、それからも仲良くさせていただいてます。
左:村上隆と 右: étéと村上隆のコラボケーキ
―いいお話ですね。他にコラボしたいアーティストとかいますか?
すでに、ドレスデザイナーのTOMO KOIZUMIさんや、フラワーアーティストの東信さんとはコラボさせていただきました。東さんはずっと世界ナンバーワンだと思っていた方で、 一番フルーツの種類が豊富なタイミングで、東さんの作品と私のケーキを合わせた写真を撮りたいってオファーをして、それも実現しました。 東さんとフォトグラファーの椎木さんが、その空間で一緒にものを作って新たなアートを生み出している瞬間は、やっぱり想像を遥かに上回る感動がありましたね。
étéとTOMO KOIZUMIのコラボケーキ
―ラグジュアリーブランドやアーティストの方とのコラボもして、もうかなり有名になったと思いますが、まだ続けるのは何か他にも明確な理由はあるのですか?
やっぱり修業時代から今も含めて、料理人に対する評価がすごく低いことが大きいことだと思います。例えばソース一つ作るのにも2日とかかけているけど、その割に料理人って全然稼げないんです 。食材を作る生産者の人に対してもリターンが少なすぎるので、そういうものの価値を上げていかないとと思ってます。コスパがいいとか言うけど、すごく美味しいものを安く食べられるのが当たり前って良くないと思うし、職人ナメんなって思うんですよ。例えば村上さんのアート作品に、1億くらいの値がつくものが普通にあるように、料理は食べたらなくなってしまうという理由以外は、すべてアートと一緒なので。そういう料理人の価値向上をしたいというのも新たなも目標としてあるので、わかりやすいアプローチとして、本物のアーティストと仕事をすることも大事だと思うんです。
―では、庄司さんの理想の女性像を教えてください。
一度香港で仕事して、コラボしたことがある「Tate Dining Room」っていうレストランの女性シェフ、Vicky Lau(ヴィッキー・ラウ)です。彼女は2015年度のアジアベストフィーメールシェフに輝いてます。もちろんお店自体も綺麗でとても素晴らしいし、旦那さんが PR をしていて、お子さんがいて、私が食べに行った時は調理場の横にベビーの椅子があって、みんなで協力しながら彼女を支えてるのが素晴らしいなと思いました。しかも仕事で100パーセント脳みそを使って新しいクリエーションを出してるし、それは私にはできないから彼女はすごいなと思うんです。
―ところで料理業界はなぜ女性が少ないと思いますか?
料理界は、男性が女性を支えるっていうのがまだまだない世界だと思っていて、女性は結婚して、家のことをして、親を安心させて当たり前みたいなのがまだ文化として根付いちゃってる。結婚して、仕事を両立してもいいと思う人もいるけど、それを良しとしない風潮のせいだと思いますね。私みたいな人間がいっぱいいたら、別に結婚に焦らなくていいし、もし私に旦那と子供もいたとして、今と同じように働いていたら、仕事しながら家庭もあるのが普通になるんですけど、まだまだ日本の料理界ではそれができない。割合が少なすぎて、多数決で負けちゃってる。それを変えていくためにも、5年ぐらいはまだ何か色々できるだろうから、自分が前に出て発信していきたいです。
―料理人として、最も大切にしていることは?
常にお客様が大事であることは絶対ですね。うちは定休日を設けてなくて、基本的には常にフレキシブルに、柔軟な脳みそをお客様のために使うっていう感じですかね。
―今までの人生で、最も影響を与えた人は誰ですか?
やっぱり川手さんですかね。お父さんが死ななければ、川手さんのところでずっと働いていたと思うし、いろいろ学ばせてもらったのは川手さんが大きかったかな。食に対する発想も凄かったし、あとはお客さんに対して同じメニューを出そうとしなかったんですよね。毎回違うサプライズを与えたいっていうので、川手さんは意地でも変える。結局お客さんが一番ていうのがあるんですね。あとはココ・シャネルはすごく好きです。「私はココ・シャネルだから結婚はしない」みたいな、ああいう生き方って自由でいいなって思いますね。私の周りも、もっと自由に生きることが当たり前の環境になってほしいです。
―海外と日本との違いを感じることはありますか?
日本は綺麗だし、丁寧さというか、気遣いやおもてなしの心とか、そういうのは海外にはないですね。あとはフルーツにしても食材のポテンシャルは圧倒的に日本がいいので、それは誇れることだと思います。
―もし庄司さんのようになりたいっていう人が相談に来たら、どうアドバイスしますか?
命をかけて努力をする、それしか言えないですね。常に私は公私の私を殺して、全て仕事に捧げてきて今ここにいるから。例えば友達に会いたい、遊びたいとか、そういうのは普通の年頃だとあると思うんですけど、そんなものは捨てて当たり前で、命をかけて仕事やれるかっていうことだと思いますね。
ファッション好きな庄司、ユニフォームにはデザインと機能性、接客時も外出時でも違和感のないものを選んでいるという。Alexander Wangのシャツに、Atsushi Nakashimaのエプロン、Off White NikeのレギンスとOofosのシューズを着用
―好きな映画や写真、音楽やアートなどで何か影響を受けたものは?
正直お客さんにウケそうか、ウケなそうかっていう脳みそになっちゃって、音楽に対してはあまりないんですよ。音楽を聴くとしても、うちのお客さんの曲しか聴かないし。村上さんの話に戻るんですけど、村上さんの埼玉にあるアトリエにお邪魔した時に、私は結構全力で命かけて仕事してきたけど、村上さんも私以上に命をかけてたのかもしれないなっていうのがわかったんですよ。私のために描いてくれた作品に対しても、サイズとか、桜の感じとか、位置とかを変えて、20個ぐらいサンプルを作ってくださってて。そういうのを見た瞬間に、やっぱり仕事に対して常に全力でひたむきにやっていかないといけないなと改めて思いましたね。
―自分のやっていることで、日本や世界が変えられるとしたら、どんなところだと思いますか?
いかに職人の価値をアピールしていくかってことに尽きると思います。常にアクティビストであれって感じですかね。そう考えると、些細なことで競い合って優劣をつけることには何の意味もないし、同じ場所で同じ人と不満ばかり言っているだけでは世界は変えられないですよね。常に新しい視点を持って、人と違う行動を起こしていくことがとても大切だと思います。
―一気に視界が開けた瞬間や、自分が成長したと実感した出来事はありますか?
やっぱりがむしゃらに努力をした先にありますよね。例えばなんですけど、新作のケーキが生まれる時ってめちゃくちゃ忙しい時が多くて、詰め込んで詰め込んで、頭を120パーセントにしてる時に、そこからさらなる脳みそが現れて、そこで新作が降ってきたりするんです。常にふわっとした感じで生きてると降りてこないし、やっぱり限界までやって当たり前で、その先に得られるものなのかなって。それがétéの定番になって、永遠のものになるみたいな。エルメスのバーキンやシャネルのマトラッセじゃないですけど、そういったものが生まれるのは、その限界の先なんだと思います。
―では、庄司さんにとって、チャンスとは何ですか?
自分が作るものです。自分で仕掛けて、それに対して相手が反応してくれた時に、これはもう掴むべきチャンスだって思います。
―庄司さんにとって、成功とは?
私にとっての成功は、自分で目標を定めてそれに向けて計画を練って100パーセント努力をして掴んだものだと思いますね。最近だと、2年前くらいからずっと仕事をしたいと思っていた人とのプロジェクトがようやく現実になって、信じられないような感動する時間を過ごせたことですね。
―これから挑戦してみたいことや、叶えたい夢はありますか?
常に挑戦してみたいことはありますが、これからは働きやすいお店にするために、調理服などのデザインとか、手に届く日常的なものから改革をしたい気持ちがあります。既にやってますが、étéのお庭もその一部ですし、近い将来、étéの調理のユニフォームを作りたいと思って計画を立てています。 私、常に自分の脳みそ内の目標しか浮かばなくて、夢というものがないんですよね。「いつか、いいな」っていうやんわりとしたふわふわした夢は好きじゃなくて。夢は見ないし、逆に全ては夢ではないと思ってます。
―3年後、5年後、10年後の自分はどうなっていると思いますか?
3年後は、より世間の人たちが自分のことを認識してくれて、こういう料理人がいてもいいんだって思ってもらえるように動いてますね。5年後は、アジアベストフィーメールシェフを獲るので、それまではそれに向けて努力します。10年後は世界を獲っていると信じています。