ON COME UP
#60 | Jun 14, 2022

祈りと瞑想を通して見える世界を描く現代アーティスト。個展「 岡本太郎に挑む 霊性とマンダラ」では、東寺で制作した曼荼羅を発表

Interview & Text: Atsuko Tanaka / 写真提供:株式会社風土

今回OCUに登場するのは、画家で現代アーティストの小松美羽さん。小さい頃の山犬との不思議な出会いをきっかけに、狛犬や神獣などをモチーフにした絵を描くようになった小松さんは、画家を目指して女子美術大学短期大学部に入学されます。そこで銅版画と出会い、作品作りに明け暮れる日々を過ごしました。卒業後は不安を抱えながら活動を続けるも、訪れたニューヨークで自身の意識に革命が起き、世界を舞台に活躍するアーティストとして一点ものの絵画を描くことに転向。その後は「新・風土記」(出雲大社奉納)や、有田焼の狛犬作品「天地の守護獣」(大英博物館所日本館永久展示)、台湾企業HTC VIVE ORIGINALSと共同制作したVR作品「祈祷=INORI」(第76回ヴェネツィア国際映画祭VR部門にノミネート)など、数多くのパワー溢れる作品を生み出してきました。祈る心を大切に、意欲的に挑戦を続ける小松さんに、幼い頃や学生時代のこと、画家を目指してから転機となった出来事や今の活動に至るまで、6月25日から始まる個展「 岡本太郎に挑む 霊性とマンダラ」に関してや、成功について思うことなどをお聞きしました。
PROFILE

現代アーティスト小松美羽

1984年長野県生まれ。女子美術大学短期大学部卒業。現在、同大学特別招聘教授、東京藝術大学非常勤講師。豊かな自然環境での生き物たちとの触れ合い、その死を間近で看取るという幼少期からの経験が独自の死生観を形成。死の美しさを志向した表現へと至る。女子美術大学短期大学部在学中に銅版画の制作を開始。20歳の頃の作品『四十九日』は、際立つ技巧と作風で賞賛されプロへの道を切り開く。銅版画からスタートし、近年ではアクリル画、有田焼などに制作領域を拡大。パフォーマンス性に秀でた力強い表現力で神獣をテーマとした作品を発表。制作、個展、ライブペインティング等、国内外各地で行い、作家として精力的に活動を続けている。

小松美羽

―小さい頃は、どんな子供でしたか?

どちらかというと動物と一緒にいたり、家で絵を描くのが好きな子でした。地元の(長野県)坂城町は山間の町なので、山に行ったりして遊ぶのもすごく好きでした。

 

左:保育園の頃/右:小学校の頃描いた絵

―ご両親はどんな方ですか?

母はアートを観るのが好きで、美術館や展覧会があると連れていってくれて、わかる範囲で絵の説明をしてくれました。父は風景写真を撮るのがとても好きなので、風景をフレームで切り取って見れる紙みたいなものをいつも持ち歩いて、景色の移り変わりを眺めていたのを覚えています。

 

―その頃に憧れた職業はありましたか?

画家ですね。今はわからないですけど、当時長野県は東京都についで美術館などの施設が多かったので、絵を描いた先に、展示されて多くの人に観てもらえる場所があるんだと知って、私もいつかそういう風になりたいと思っていたんです。母親には、有名な画家は氷山の一角に過ぎないし大変なのよって言われていましたけど、そうなんだという程度に聞いてました。

 

―中学生、高校生の頃はどんな日々でしたか?

中学の頃は多感な思春期でしたが、友達と遊ぶよりは家で家族や動物たちと一緒にいる方が好きでした。高校生になってからは、進路を考えなければいけないので、2年生の夏頃からデッサンなどを勉強しに外部の予備校に行くようになりました。その頃から真剣に絵を学びたいと思い始めて、先生に相談したら女子美の短大を勧められたので、言われるがままに決めました。

 

―女子美での学生生活はいかがでしたか?

当時女子美の隣にあった学生寮で生活しながら、アートに包まれる環境の中楽しく過ごしていました。元は洋画専攻でしたが、銅版画の線が自分が求めていた表現方法だったことに気づき、専攻を銅版画に変更して、それからは課題とか関係なく作品をずっと作り続けていました。

 

女子美時代

―大学時代に描いた作品で、のちの小松さんの代表作となる「四十九日」のアイデアはおじいさんが亡くなった時に浮かんできたそうですね。

おじいちゃんが亡くなった時、体からエネルギーの塊みたいな温かい光がぽこっと出たのが見えて、魂の気配を感じました。お通夜で色々な人が祈る中、少しずつ準備をして天に行っちゃうんだと思ったら、おじいちゃんがあの世に向かう道みたいな絵が浮かんできて。これは描かなきゃってなって思ったんです。

 

―いても立ってもいられなくなった?

お葬式の最中でしたが、この感覚を忘れないうちに早く絵を描かないとと思い、学校に戻ってすぐに四十九日の元となる絵を描きました。おじいちゃんが最後に教えてくれたメッセージのような気がしましたし、私ののちの代表作になったので感謝しています。

 

「四十九日」

―大学卒業後は、画家を目指してどんなアクションを起こしたのですか?

色々なバイトを転々として、デパートの画廊にあるアートショップなどで働いていました。機会があるごとに、そこで出会ったアート関係の方たちにポートフォリオを見ていただきましたが、「これでよくいけると思ったね」とか、「目がギョロっとしていて怖いからちょっと無理かな」とか、否定的な意見をもらうことがほとんどでした。でも小学校の頃に見た、私が画家となって美術館とかで指示をしている夢は絶対実現すると信じていたので、不安ながらも大丈夫だって思っていました。

 

―活躍の転機となった出来事は?

友達がバーを開くことになって私の絵を飾ってと渡したら、そこに来た今の私のプロデューサー、高橋さんが絵が面白いから他ももっと見てみたいって言ってくださったんです。後日、高橋さんの知り合いの画廊さんやコレクターさんに見ていただけることになりました。またきっとマイナスなことを言われるかなと思っていたら、意外にも好評価をいただけて。それで、阿久悠さんのアルバムジャケットのコンペに作品を出してみることになり、それが通って初めての仕事をいただけました。

 

―その後、アートフェア「YOUNG ARTISTS JAPAN Vol.3」に参加されて、「四十九日」が売れたんですよね。初めて自分の作品が売れた時は、どんなお気持ちでしたか?

作品を購入してくださったのは、当時エルメスジャポンの社長だった齋藤峰明さんで、そのアート展に二日間続けて来てくれて、やっぱり買おうって言ってくださって。今でもそのことを思い出すことがありますが、すごく嬉しかったです。こうやって画家って成長していくんだなって、こういうことの積み重ねで強くなっていくんだなって感じて、これからもいっぱい絵を描いて、多くの人に作品を見てもらえるようにもっと勉強していかないといけないと思いました。

 

―そしてニューヨークに武者修行に行かれて、世界のアートシーンを肌で感じて。いかがでしたか?

版画の作品をポートフォリオにして持っていろんなギャラリーを周りました。小心者なので最初の2、3日は自分から声をかけられなかったですけど、連れて行ってくださったアートディーラーの塩原将志さんから、いいと思ったギャラリーがあれば自分から声かけてみなさいと言われて、拙い英語で話しかけてみました。でも、「私は決定権がないから」とか、「実績を積んでからじゃないと見れない」って言われることが多く、中でも一番指摘されたのは、私の作品は版画のプリントのみで、一点ものではないということでした。アーティストはステージが上がっていくと、ミュージアムピースと言われる大きな作品をどれだけ描けるのかとか、そういうスケール感を持っているのかも重要になってくるので、「こんな小さい作品ばっかり作ってるんだったらちょっと違うね」と言われて。そこから版画の作品にこだわりすぎていた自分を反省して、もっと絵を学んでいかなきゃいけないなと、帰国してからすぐ大きなキャンパスを購入して絵と向き合うようになりました。

 

ニューヨークを訪れた時。写真左はアートディーラーの塩原氏と

―ご自身の作品に対する意識が変わったのですね。そして「四十九日」の原盤を切断するという決断に至ります。相当な葛藤と覚悟があったのでは。

四十九日は初めて売れた作品でしたし、それまでずっと一緒に生きてきて、葛藤はもちろんありました。その頃ちょうど博多織で白虎シリーズを制作している時で、白虎は何度も死と生を繰り返すことでさらに成長していくことを学んでいたので、私も大きなミュージアムピースに挑んでいくためには、破壊して生まれ変わっていかないといけないんだと感じて。原盤を切った瞬間は涙も出たし、いろいろな思いがこみ上げてきましたが、今となっては破壊したことで多くの学びもいただけたと思って感謝しています。また、切断した原盤は額縁にきちんと入れて保存していまして、それを展示することもあります。

 

―その後の代表作「新・風土記」が誕生した経緯を教えていただけますか?

伊勢神宮で大晦日の篝火のお仕事をさせていただいた時に、一日中寒さと眠気と闘いながらやっていて、だんだんと極限の状態になった時に、向こうに大きな目が見えたんです。こっちをじっと見てるんですよね。それによって自分の魂が正されたというか、改めてしっかりしないとって思わされて、目は非常に大切なんだなって改めて気付くことができました。その後出雲大社に、遷宮のおかげ年に正式参拝させていただいたのですが、雨が降る中、地面から虹色の光が雲を突き抜けるのが見えて。神社にいるにも関わらず聖書の虹の約束を思い出して、多くの人の祈りの思いが色となって天に向かっていくように感じて、そこから作品に色を取り入れるようになり、新・風土記が生まれました。

 

「新・風土記」

―小松さんは、毎日絵を描く前に瞑想とお祈りを必ずされるそうですが、きっかけはなんだったのですか?

2015年にタイの山中にあるお寺の近くで、毎日瞑想をしたことがきっかけでした。そこでは、教えていただいたマントラを唱え続けたり、空き時間はとにかく洞窟で瞑想をずっと繰り返していたのですが、瞑想によって自我をなくして多くのものをいただくことを学ばせていただきました。瞑想のやり方はいろいろあります。まず最初は、蝋燭の炎に集中します。その後、その残像を第三の目のあたりにあるミニシアターに映し出し、自在に大きさを変化させたり動かしたりします。そうすると、自分で作り出したものとは違う多くの存在が現れたり、見たことのない景色や勝手に映像が動き出したりするんです。体は大地の上にいるのに、宇宙を飛んでいたり、光のトンネルを高速で駆け抜けたり。ここでは語りきれないほどの経験をしました。

 

―それが紀尾井町カンファレンスで発表した「エリア21」の作品の誕生に繋がった?

瞑想状態となったことで、宇宙から地球を俯瞰して見ます。国境線は人が勝手に引いた線にしかすぎません。国境を使って地球を分けて見ていくのではなく、また、海や大地といった区別もすることはなく、地球を正多面体20で区切り、宇宙からの視点1を加えて21のエリアで絵を描いていた作品があります。東寺で描いた曼荼羅もまた、深い精神状態から俯瞰して多くの学びを得ながら制作していきました。

 

紀尾井町カンファレンスで発表した「エリア21」

―今回の個展はどのような作品展になるのでしょうか?

今回は初期の頃から最近の作品を5つの章に分けて展示しますので、これまでの色々な変化を感じていただけると思います。メインとなる曼荼羅を置いた空間では、真ん中に岡本太郎さんの作品を置き、周りに黒曜石を撒いています。絵と絵の間に立った時に、自分の魂や心を絵と交換しながら各々が感じてもらえるような、瞑想空間に少し近いような感じで、普通の展覧会とはちょっと違った配置にしています。東寺の「両界曼荼羅」が展示される際の灌頂院の空間を意識して作り上げました。

 

―曼陀羅は、どんなことにインスピレーションを受けて描いたのでしょうか?

NEXT MANDALAー魂の故郷」という作品は、いろんなご縁が重なって高野山の三宝院で日々瞑想やお祈りをさせていただきながら完成させた作品です。そのご縁から今回東寺の食堂で「ネクストマンダラ – 大調和」を制作させていただきました。先日描き終えまして、来年、東寺の奉納儀式で最後の点を入れて、本当の意味での完成となります。約4×4メートルくらいの非常に大きな作品で、両界曼荼羅と同じサイズになります。

 

「ネクストマンダラ - 大調和」の展示スペース

左:「NEXT MANDALAー魂の故郷」の制作時/右:東寺で「ネクストマンダラ - 大調和」の絵を描いている様子

―色合いがとても美しいですね。

曼荼羅は密教的で仏像が描かれてるイメージがありますが、色々な宗教観を持った方に見ていただきたいのと、その方たちの魂の拠り所が絵の中に少しでもあるようにしたかったので、曼荼羅の彩色においては、聖書の世界で出てくる虹のお話をベースにさせていただきました。

 

―作品展のタイトルに「岡本太郎に挑む」とありますが、小松さんにとって岡本太郎さんはどんな存在ですか

小さい頃は、すごい芸術家でちょっと変わった方というイメージがありましたが、大人になって改めて本などを読んでみると、とても知的で、神話や民話がある場所だったり、重要な場所へきちっと足を運んで、学んで文書に残されていらっしゃることを知りました。ご自身の好奇心と肉体に限界が来るまで、ひたむきに活動を続けた姿は本当に尊敬します。そういった先人の方達が残してくれた土台があるからこそ、私たちは多くの学びを得ることができるので、感謝と尊敬の気持ちを持っています。

 

―この展示をどんな方に観て欲しいですか?

岡本太郎美術館は郊外の緑豊かな場所で、美術館の周りは公園も多いですし、お子さんが遊べる場所もありますので、お母様方は是非お子さんも連れて一緒に来てくださると嬉しいなと思います。また、海外旅行客の受け入れも少しずつ緩和されていると思うので、いろんな国の方にも観ていただきたいです。

 

―ところで、小松さんは仏教やキリスト教、ユダヤ教などの宗教にもお詳しいですが、いろんな宗教を学んでいく中で感じること、気づいたことはありますか?

人間はみんな父と母から生まれて、祈る心があって生まれてくるのだと思っています。自分も、日々祈りを積み重ねながら絵を描き、多くの人と心や魂で繋がっていきたいと思っているので、祈りの心を持つことをとても大切にしています。

 

―どの宗教でも、特に好きな教えや言葉はありますか?

ちょうど東寺で曼荼羅の制作をしていたというのもありますが、空海さんという一人の方に対してフォーカスさせていただいて、非常に頭の良い方で、書の才能や芸事にも優れ、日本の様々な文化や発明をされていらっしゃったことを知りました。調和を持った生き方は自分が目指すところでもありますので、本当に素晴らしい方だと思います。

 

―ご自身の価値観に変化や気づきを与えてくれた出会いがこれまでたくさんあったと思いますが、特に印象に残るものは何かありますか?

たくさんありますが、キリスト教徒でありながらユダヤ教の方達からも尊敬されて、多くのことを学ばれてきた手島佑郎先生の教えにとても大きな影響を受けています。先生とは三大宗教の聖地であるイスラエルに一緒に行かせていただいて、自分たちのことだけを考えるのでなく、地球や未来に対して本気で祈っている方たちの生の現場を見せてくださいました。また、私の絵がだんだんと多くの人に見てもらえるのは、私が祈る心を知ってるからだと、そこに私の霊性が込められているから多くの霊性と繋がっていくんだよと言ってくださって、とても光栄でした。

 

小松美羽の精神を支える恩人、手島佑郎氏と訪れたイスラエルにて(2016年)

―では、これまでの活動を通して最も辛かった時期はいつ頃でしたか?また、それはどのようにして乗り越えましたか?

(プロデューサーの)高橋さんと出会う前は、いろいろ辛かったですね。美術学校では技術や歴史は教えてくれるけど、卒業後のことは教えてくれないので、どうしたらいいのかわからず、不安で本当に悩んだ時がありました。でも、小さい時に見た夢をずっと信じていましたし、不安になっても必ず大丈夫だって思ってました。

 

―逆に一番嬉しかったことは?

いいチームに恵まれて、これまで多くの出会いをいただけて本当にありがたいと思っています。高橋さんと仕事をすることになった頃、「まずは梁山泊を作って一緒に頑張っていこう」って言ってくださったんです。そこから少しずつ認めてくれる人が増えていって、多くの人たちと繋がって、一つひとつのご縁を大切にしながらここまで来れたので、どの出会いにもとても感謝しています。

 

―現在はどのようなライフスタイルを送っていらっしゃいますか?

朝起きてお祈りや瞑想をして、そこから絵を描いて、あとはわんちゃん達と遊んで、日々ゆったりと過ごしています。

 

―好きな絵、アートや映画、音楽などで一番影響を受けたものは?

アートだと、伊藤若冲さんの絵が好きです。私にとって良い作品の基準は、見た時に絵が動いて見えるかどうかなんです。そこにスピリットみたいな不思議な存在が、絵を家にして動いているような感じですね。他にも、フィレンツェのウフィツィ美術館にある「キリストの洗礼」は本当に光って見えたし、バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂の「最後の審判」は、絵を通して自分の罪を改めて感じて正しく生きていかないといけないと思わされるほどの力強さがありました。これらの絵は、時を重ねるほど重みを増していくというか、多くの人の祈りや感情が交わって、さらに素晴らしくなっていくんだと感じました。

 

灌頂院で瞑想をする様子

―小松さんの理想の女性像を教えてください。

最近うちの母が可愛いなって思うことがよくあります。前に夜空を一緒に見ていた時、ふざけて「夜空が綺麗だけどお母さんの方が輝いて綺麗だねって」って言ったら、そういう冗談は本当にやめてって怒られましたけど(笑)。母は、若い頃に比べたらしわとかシミとか増えたけれど、最近はふっ切れたのか、受け入れながら生きてる姿を見てると、外見とか、他人にこう見られたいからって無理するのではなく、今ある最大限の可愛さを大事にするというか、私もそういう受け入れ方をしていけたらいいなと思いました。

 

―ご自身で思う自分はどんな人ですか?

できた人間ではないというか、まだまだ多くの修行をいただいている感じです。反省したり、言わなきゃ良かったと思うことを言ってしまったり、後悔することも非常に多いですけど、やっぱり普通の人間なので色々あります。肉体が死ぬ日がまだ来ていないということは、それだけまだ学びがあるということだと思うので、出来る限りその学びに着手しながら少しでも成長していきたいと思います。

 

―では、小松さんにとってチャンスとは?

牧師の娘さんである私のマネージャーの星原さんがよく言ってくれることなんですが、私たち人間にはその時の自分に合った問題や壁をいただいてるので、それを苦難と思うのか、チャンスで成長する時だと思うのかは自分次第だと思うんですね。試練を与えてもらっているんだってポジティブに受け止めれば、その時は辛くても後でその意味がわかるし、チャンスの一つだったんだと捉えることができると思います。

 

―いろんな葛藤の中でもがいているアーティストの方たちに何かアドバイスをするとしたら?

作品を発表する場や、他の人にインスピレーションを与えられる機会が多い人ほど成功しているように見えたりするかもしれないですけど、例えばたった一人のお母さんのために生涯絵を描き続けて、死ぬまでに一枚でも心から感動させるものを描けたのであればその人は十分成功していると思うんですよね。ネットやSNSで色んなことを知るのも大切ではありますけど、色々調べて心を左右されたり、間接的に知ったことを鵜呑みにして自分を追い詰めないでほしいなと思います。

 

―今社会で起こってることで気になることはありますか?

コロナの問題だけでなく、私たちが知らないだけで、他の国でもどこかで必ず何かが起きていて、若い子達が兵役に出て戦い方を学んでからじゃないと大学に行かれないなんていうこともあります。なので今起きている出来事だけでなく、いろんなことを俯瞰して見ていかれるようにしないといけないと思っています。

 

―では、小松さんにとって成功とは何ですか?

成功は客観的に人が価値づけするものだと思うので、自分が成功したと思うのは非常に難しいんですけど、最近すごく思うのは突き抜けることだと思います。突き抜け続けるのは大変だし、死ぬまで続くと思いますが、その突き抜け続けることが最終的に成功なんじゃないかなって思います。

 

―最後に、まだ実現していないこと、これから挑戦してみたいことを教えてください。

 

色々な立体作品とかを作っていきながら、美術館などだけでなく、もっと人々の生活に近い空間に溶け込むようなパブリックアートを作っていきたいと思っています。人々がふっと通り過ぎるような、「あの像あったな」程度に認識されるアートというか。いろんな人に相談しながら構想を練っているところで、この前はチームのみんなと、渋谷のハチ公のように狛犬の”コマ公“がみたいなのができたらいいねなんて話をしていました。多くの人と感情が行き交う場所だからこそ、みんなを見守ってくれるような神獣さんを作れたらいいなと思っています。

 

小松美羽 Information

【小松美羽展】〜 岡本太郎に挑む 霊性とマンダラ 〜

会期:2022年6月25日(土)~2022年8月28日(日)
開館時間:9:30~17:00(入館16:30まで)
休館日:月曜日(7月18日を除く)、7月19日(火)、8月12日(金)
観覧料:一般1,000(800)円、高・大学生・65 歳以上800(640)円
※( )内は20名以上の団体料金
※中学生以下は無料
企画協力:Whitestone Gallery、株式会社風𡈽
特別協力:真言宗総本山 東寺
協賛:株式会社NEW ART HOLDINGSv

https://www.taromuseum.jp/nextexhibition.html