小野山要
小さい頃はどんな子供でしたか?
ごく普通の子供だったと思います。手塚治虫の「ブッダ」などの漫画が好きで、将来は漫画家になりたいと思いながら絵を描いてました。映画も好きでジブリの「風の谷のナウシカ」が大好きでした。
ご出身はどちらなのですか?
生まれは大阪の富田林というところで、9歳の時に岡山に引っ越しました。
ご両親はどんな方でどんな育てられ方をしましたか?
両親とも大学教授で陶芸家だったので、常に親が創作活動をしている姿を見て育ちました。優しい親で、僕のやりたいようにやらせてくれました。
中学、高校と通っていた学校はどんな場所でしたか?
幼馴染と同じ中高に行きたいという理由から、中学から全寮制のPL学園に入りました。普通科で軟式野球部でした。とても厳しい集団生活だったので、僕にとってはとても辛い日々でしたね。創作活動などをできるような環境は全くなく、漫画は禁止、コンサートにも行けないし、映画館も周りにない。ましてや当時はインターネットもない中、唯一許されたのが文学でした。本はいくらでも読んで良かったので、小説などいろいろ読みました。
好きな小説家は?
安倍公房です。彼に凄い感銘を受けて、大学は文学部に進もうと思いました。あと、遠藤周作も大好きです。
大学は慶應義塾大学に進み、フランス文学を学ばれたそうですね
大学入学前にたまたま読んだ「ジョジョの奇妙な冒険」の舞台がイタリアだったので、第2外国語をイタリア語にしようと思っていたら、母にフランス語を勧められました。その時は「ボンジュール」がフランス語だということさえも知らなかったんですけど(笑)、実際に勉強し始めたら、フランス語ってなんて面白い言葉なんだろうって思いました。
映像の世界に魅せられたきっかけは何かあったのですか?
中高ではアートから遮断された生活を送っていたので、大学で一人暮らしを始めて自由になった中、とにかくたくさんの映画やアートを観ました。今でも良く覚えていますが、初めて観に行った映画は、フランス映画界の鬼才と呼ばれるギャスパー・ノエ監督の「カノン」。大学1年生の時にふらっと入った映画館で上映していたんです。すごく衝撃的で怖い映画なんですけど、映像作品に文学の面白さや表現方法の可能性があることに感銘を受けて、映画に興味を持つようになりました。
大学卒業後にフランスへ留学されたそうですが、大学生の時から留学を考えていたのですか?
留学する前に一度、大学1年の夏(2001年)に旅行で行ったことがありました。親から「35日間はビザなしで行けるから、どこかに行って来い」と滞在できるギリギリのお金を渡されて、バックパックひとつで行ったんです。
初めてのフランスはいかがでしたか?
ユースホステルを転々として、フランス中をいろいろ周りました。ユースホステルでは色んな国の人たちとの出会いがあって、最初に東京に行った時とは比べものにならないほどの衝撃を受けました。そこで彼らに「何でお前は旅行しているんだ?」とか「何でそんな中高に行ったんだ?」など聞かれることがあったんですけど、僕は自分の行動の動機がよく分かっていなかったので、答えることができなかったんです。「自分ってなんだろう?」と考えて、ホームシックになりながらも、やっぱり若いうちに一度は外国に住んでみたいと思いました。
その後は日本に戻って、どのような生活を送っていたのですか?
2年生の時に大学の交換留学で学部内から2人行けるプログラムがあって、ぜひ行きたいと思っていたんですが、結局選ばれませんでした。3年生になって就職を考えたけど、やっぱり全然イメージできなくて、大学院に行く道を決めました。慶応の総合政策学部に新しいメディアアートや映像をやっているラボがあって、よく聴講に行っていたので、そこで映像を使った研究をしようと思ったんです。フランスに行く考えは一回なくして、卒論を書きながら大学院に行く準備をしました。でも大学院に入っても、その半年後にまた就活が始まることを考えたらやっぱり違うと思って、卒業直前に大学院進学をやめて、卒業後すぐに(2004年の4月)何のプランも決めずにフランスに行きました。
留学ではなく、いきなり行ったのですか?
僕はそれまでちゃんとした映画の勉強をしてこなかったので、一から映画を学ぼうと思って、学校の下見を兼ねて最初は観光で行きました。本当はフェミスという国立の映画学校に入りたかったんですけど、当時の僕のフランス語の語学力では難しかったので、エスラ・スクール・オブ・シネマという学校に入ることにしました。
ちなみに小野山さんは、最初から監督ではなく、撮影する方に興味を持っていたのですか?
もちろん監督になりたいという思いもあったんですけど、当時の僕の語学力ではみんなをまとめるのは難しかったし、いざ監督となるとどうして良いのか分からなかったんです。そんな時、大学時代の先輩で、当時25歳で映画監督デビューされた小泉徳宏さんにお話を伺いにいきました。僕は大学の頃から写真を趣味で撮っていたのですが、先輩に「お前が昔撮ってた写真、好きだったんだよね。映画にも撮影監督っていう仕事があるから、それをまずやってみれば?」と言われて、初めて撮影監督になるイメージを抱いたんです。
学生時代
学生時代はどのようにして過ごしたのですか?
学校ではショートフィルムなどの作品を撮りながら、2年生の時から照明のレンタル機材屋でインターンを始めました。その機材屋の横にあるスタジオで、テレビドラマの撮影が行われていたので毎日見学しに行っていたら、そのうち照明の人と仲良くなって。その彼がプロデューサーに紹介してくれて、僕はそこでインターンとして働くことになりました。フランスで有名な「RIS」という刑事ドラマで、現場ではみんな優しく、撮影について色々教えてくれました。3年生になってからは、カメラの機材屋でもインターンをするようになって、ショートフィルムやミュージックビデオなど、話が来ればなんでも手伝いに行きました。
海外だとインターンは無償で働くことが多いように思いますが、生活はどうされていたのですか?
フランスではインターンは無償なのでギリギリの生活でしたね。でも、もうちょっと頑張ればなんとか生活できるところまで来ていたので、卒業後も日本に戻らずにフランスに残ることにしました。日本の友達はみんな良い大学を出て、商社マンなどになる中、僕はご飯に醤油をかけて食べたりして、これでいいのかと焦りもありましたけど、親は「ギリギリの仕送りはするから、うどん屋とかでバイトしたりはするな。だったら映画の仕事をしろ」と言ってくれて。
インターンしていたレンタル機材屋にて
卒業後はそれまでのコネから少しずつ仕事を取得していったのですか?
はい、学生時代にやっていたことがだんだんと形になっていった感じです。仕事を探してはビザをもらってという風にして滞在を延長しながら、少しずつ仕事が来るようになり、28歳くらいでやっと仕送りがなくてもなんとか生活できるようになりました。それである日、大きい長編映画のアシスタントの話が来てとても喜んでいたら、クランクインの前日に僕がフランス人ではないからという理由で断られてしまったんです。
どういうことですか?
フランスにはCNC(フランス国立映画センター)という、映画や映像産業の助成を行う機関があって、インディーズ系やアート系の作品にも援助金を出しているんですけど、その援助金をもらうには、映像プロダクションとしてフランスの映画界に貢献したなどを証明して、ポイントを稼がないといけないんです。僕のようなビザの状況も不安定な外国人を雇ったら、ポイントが減ってしまうので、無理だと言われて。やっと映画に関われそうなところまで来たのにできないとなって、それからしばらくは仕事もなく、30歳を目の前にしてひどく落ち込みました。
それは辛いですね。それからどういう行動に出たのですか?
アシスタントとしてそのまま続けていても、きっといつかどうしようもなくなって日本に帰らなきゃいけなくなるだろうから、最後に賭けようと思って、それからはアシスタントの話が来ても断って、カメラマンとしてやっていくことにしました。そうしたら、安い仕事でも引き受けてくれる若いカメラマンを探している人が意外と周りに多くいて、カメラマンとしての仕事が来るようになりました。
独立して初めて手掛けた作品はなんだったのですか?
企業広告用の映像です。学生時代の友達が広告代理店でインターンをしていて、彼が初めて監督をする仕事の撮影を頼まれたんです。その後は、ショートフィルムやミュージックビデオ、CMの仕事を受けるようになりました。リーマン・ショックがあったときは、仕事が減ったりもしたんですけど、ちょうどキヤノンの5DマークIIという一眼レフで、動画撮影も可能というカメラが出た時期で、今まで大人数でないと撮れなかったものが少人数でも手軽に撮れるようになり、少人数で対応できる体制をつくったらたくさん仕事が来るようになりました。
小野山さんの名前が売れるきっかけになった作品は?
2013年に撮ったCASSIUSというバンドのミュージックビデオ「I LOVE YOU SO」ですかね。作品はとても高い評価を受けました。ちなみにこの作品の監督は、ファレル・ウィリアムスの「Happy」を撮ったWE ARE FROM L.Aなんですよ。あと、Dailymotionというフランス版のYouTubeのようなサイトに流すお菓子のCMをほぼ予算なしで撮ったんですが、それがすごく気に入られて、テレビや映画館でもかかるようになり、そこからさらに仕事が増えました。
映画を撮るようになったのは2013年頃からですか?2013年にフランスの有名な現代アーティスト、カミーユ・アンロのビデオアート「Grosse Fatigue」、翌年にサンダンス映画祭で公開されたフランスの映画監督・脚本家、レオス・カラックスのドキュメンタリー「Mr. X」、2015年には寺島しのぶさんや寺島進さんが出演した短編映画「SAVAGE NIGHT」などを手がけていらっしゃいますね。
はい。僕はもともと映画がやりたかったんですけど、広告の仕事の方が忙しくなってしまったので、それまでなかなかできなかったんです。どの作品もとても良い経験をさせてもらって勉強になりました。
撮影中に小野山さんが一番気をつけていることや、作品の出来上がりを考えて、こだわるところはどんなところですか?
自分が満足するいい画を撮りたいなどではなく、いかに監督が想像する画を忠実に美しく表現できるかです。例えば、もうすぐ公開予定のショートフィルム「BELLE A CROQUER(ベル・ア・クロケ)」を撮ったときは、監督が描いた130ぺージにも及ぶ緻密に描かれた絵本のようなストーリーボードのイメージを損なわず、どうやって実際の光や影を作るべきか、とても悩みました。ストーリーボード上では、普通の映画以上に遠近感が強調されていたり、光と影の方向がデタラメだったり、いわゆる漫画的な表現が効果的に使われているのですが、それを実際にレンズを通して表現しようとすると、毎回どこか破綻してしまう部分がでてきます。それを監督と話し合って、できるだけ元のイメージの大切な部分を崩さず、少し違う表現方法にずらしたり、どうしても絵のようにはできないということで妥協したり、全カットを丁寧に分析して撮影しました。
ベル・ア・クロケのスチール画像(上段)と監督が描いたストーリーボード用の画(下段)
色彩豊かな作品の世界に引き込まれ、撮影、衣装、美術と、全てのディテールにとてもこだわっていらっしゃるのが伝わってきました。
舞台美術も監督がすべてデザインしたのですが、一から全部を作ろうとすると短編映画の予算にはとても収まりません。結局、パリ郊外の精神病院の片隅の、電気も通っていない空き家をタダ同然で借り上げ、その中を全部改装しました。美術部は丸2、3ヶ月頑張ったと思います。毎日セットに入るたび、まるで映画の世界に飛び込んだような気分でした。撮影にかかった期間は、自主映画としては異例の3週間。手の空いた技術者の友人たちが毎日応援にきてくれて、なんとか撮りあげました。あの部屋が取り壊される時は、すごく寂しくなったのを覚えています。
「Befikre(ベフィクレー)」(2016年公開)では、ボリウッド映画で日本人初となる撮影監督を務められましたが、この作品に携わることになったきっかけや、撮影を通して学んだこと、苦労したことなどを教えてください。
この映画の監督兼プロデューサーのアディティア・チョープラーさんはスピルバーグ監督くらいの超大物の方なのですが、今までにない新しいスタイルのボリウッド作品に挑みたい想いがあったようです。僕の作品をどこかで観たのか、ある日監督のアシスタントから僕に連絡がきて、全く予想していなかった話でしたが、チャレンジだと思って快諾させていただきました。監督のプロフェッショナルさや、経験値、判断力の早さには感動しましたね。大変だったのは、ボリウッド映画ならではかもしれないですが、事前にガッチリ固めたプランを撮影の直前になって壊していくところ。撮影場所もどんどん変えたりして、その都度スケジュールを変えていかないといけなかったので大変でしたけど、とても楽しい撮影でした。
フランスの映画・映像業界でやるために必要な心構えや考え方、求められる才能はどんなことだと思いますか?
突出した才能があれば別ですけど、映像はチームワークが大事なので、コミュニケーション能力は大事かもしれませんね。監督がどうしたいのかをしっかり理解して、自分なりにかみ砕いて表現するのが大切だと思います。あとは、フランス語が話せること。英語が話せるフランス人は増えていますけど、フランス人って国際的じゃない部分もあるので、フランス語が話せるといいですね。そして、フランス人を理解することも大切だと思います。僕自身は、フランスに溶け込むことを人一倍頑張ったかもしれません。フランス人に「お前はフランス人だ」とよく言われますから。
日本の映像のトレンドをチェックすることはありますか?
機会があれば観るようにしていて、是枝監督の作品の撮り方などにはとても感銘を受けています。最近観た中で久しぶりにガツンときたのは、深田晃司監督の「淵に立つ」です。フランス出資の映画ですし、日本の映像のトレンドとは違うのかもしれないですけど、映像の撮り方がすごく不思議だなと思ったのと、凄い日本的な作品だなと思いました。実際にはあまりいなそうな登場人物を本当にいるように思わせてしまう、日本独特のリアルな表現の仕方を感じましたね。
役者さんでこの人を撮ってみたいという人はいますか?
浅野忠信さんですかね。フランス映画もそうなんですけど、日本映画の作品って台詞にリアリティがないものが多い中、深田さんや是枝さんの作品の登場人物は、僕らが普段から使う言葉づかいで話しているのでリアリティを感じるんです。そういうことを追求している作品や、そういう作品に出ている役者さんは気になります。
カメラマンとして、撮影を通してまだ達成できていない部分を感じることはありますか?
映画からものすごく衝撃を受ける時って、やっぱり役者さんのリアリティーを超えた凄さを感じた時だと思うんですけど、そういう究極の瞬間をそのカメラマンはどうやって撮ったんだろう、それを撮った時、どういう気持ちだったんだろうなどと考えることがあります。僕はダンスを撮っている時に、ダンスの美しさと一体感を感じたことはあるんですけど、芝居を通してはまだないので、これからは芝居を撮影している時にもそう感じることができたらいいなと思います。
ダンスと言えば、「Opera de Paris」の映像作品「ASCENSION」では、同バレエ団のオニール八菜さんがバレエを踊る姿を美しく捉えていらっしゃいますが、450年近い歴史を持つフランスのバレエ団の仕事を引き受けていかがでしたか?
すごく面白かったです。バンジャマン・ミルピエという振付師が現代ダンスの世界からパリ・オペラ座史上最年少で芸術監督として抜擢されて、もっと別な角度からオペラを捉えてみようと、「3e Scène(第三のステージ)」いうプロジェクトをやっていて、その一環でこの作品に参加させて頂きました。それまでもダンスを観るのは好きでしたけど、撮るのも楽しいと思ったのはこの時が初めてで、とても良い経験になりました。
小野山さんの作品からは、ダンスや動きの要素を感じる作品が多いように思っていたので、ダンスと言えば小野山さんといった感じで依頼がくることも多いのかなと思っていたのですが。
どうなんでしょう。「Opera de Paris」の作品をきっかけに増えた可能性はありますが、もともとダンスは僕の感性と合うのかもしれないです。昔からマイケル・ジャクソンが大好きで、厳しかった中高時代もマイケルの特集をビデオに撮ってはテープがダメになるくらい観てましたから(笑)。このオペラのお仕事がきっかけになって、三越伊勢丹の2017年メインビジュアルのスチール撮影もさせていただきました。
三越伊勢丹の2017年メインビジュアル。モデルはオニール八菜
今まで手がけたダンスの映像作品で一番好きな作品はなんですか?
「 (LA)HORDE(ラ・オルド)」という現代アーティストとしてダンスを取り込んだ制作活動をしているフランス人トリオとのコラボ作品、「Novaciéries(ノヴァスィエリ)」です。僕がカメラアシスタントとして現代アーティスト、ローラン・グラッソの「ザ・サイレント・ムービー」の撮影に参加した時、ローランのアシスタントだったマリーン・ブルティ(ラ・オルドのメンバーの一人)と出会い、以来彼らと一緒に映像制作をしています。この作品は、サン・エティエンヌ国際デザイン・ビエンナーレから作品の制作依頼があって、彼らと一緒に作ったものです。アート映像なのでもちろん低予算で、極寒のサン・エティエンヌの工場跡に一週間こもっての撮影でした。
ジャンプを取り入れた独特な踊りと不思議なムードが、とても印象的です。
この作品は、電子系音楽のハードコアというムーブメントの中で生まれた「ジャンプスタイル」という踊りを元にしています。インターネットでジャンプスタイルの動画を探すと、田舎町の駐車場で独り踊っているのを自分で撮影したり、家のガレージで踊っているのを友達が撮ったりしている孤独なものが多いんです。ジャンプスタイルは激しい動きの連続なので、踊るほうは数分のうちに息がきれて限界がきてしまう。そういう光のあたらない場所から、インターネットの向こうの明るい世界に向けて、肉体をすり減らしながら何かを訴えている。そういう世界観を映像作品として再現しました。
最近気づいたことで、自分に足りていないと思うことはありますか?
今まで色んな素晴らしい作品に関わらせていただいてますけど、物語を映像でどう語っていくかというナレーションの部分が、まだ自分の思うように表現できていないと思います。あとは英語ですかね。これからは、フランスにとどまらず、日本やアメリカでも映画を撮っていきたいと思っているので、もっと英語を上達させないといけないですね。
社会で起こっていることで気になることは?
東日本大震災が起こった時、初めて東京に行った時や、初めてフランスを旅行した時のように、物事の見え方が急に広がる感覚を味わったんです。原発のことや、今まで分からなかった部分がすごく繋がったというか、あれから色々な問題に気付くようになりました。他にも、戦争のこととか、気になることはたくさんあります。
自分がやっていることで日本や世界が変えられるとしたらどんなことだと思いますか?
僕が関わる作品を観た人が、考え方を変えたり感銘を受けたりすることだと思います。僕も今まで映画やアートからたくさんのことを学びました。当初は言おうとしてることや表現の意味が分からなくても、後から「そういうことだったのか!」と理解できたことが多いので、僕の作品からもそういう風に感じてもらえたら嬉しいです。
他人が思う像と実際に自分が感じる像とのギャップはどこに感じますか?
人間としての人物像としては、他人にどんな風に思われているかは分からないです。僕の作品で言えば、広告ばかりやってきたせいもあるかもしれないですけど、僕の人間性や考えていることを作品に出しきれていないように思います。僕が本当にやりたいのは広告ではなく映画だと言うと、驚かれることもあるので。でも、これからフランスだけにとどまらず広く動き続ければ、世界のどこかの誰かは僕が本当にやろうとしていることを分かってくれるんじゃないかと期待してます。
小野山さんにとって、成功とはなんですか?
スティーブ・マックィーン監督の「ハンガー」を観たとき、いち観客として大きな衝撃を受けたのですが、あの作品を撮ったカメラマンは現場でどんな気持ちでカメラを回していたんだろうって思って。なので、僕も現場で撮影しながら作品の中の世界に入り込んで(作品を)体感することができて、観た人たちにも同じように感じてもらえたら、成功だと思っています。いつかそういう素晴らしい作品に辿り着けるよう、しっかり人間性を磨いていきたいと思います。
3年後、5年後、10年後の自分はどうなっていると思いますか?どうしたらそれになれると思いますか?
最近アメリカのエージェントも決まったので、3年後はフランスにとどまらず、 今よりもう少し国際性のある作品を撮っていたいです。5年後はもっと本格的に映画を撮っていたい。フランスのローカルな小さな作品でもハリウッドでも構わないんですけど、登場人物をどう育てていくかとか、映画という一つの物語をどう作り上げていくかなどを考える毎日を送っていたいですね。10年後はどこに住んでいるか分からないですけど、「ハンガー」のような作品が撮れるようになって、先ほど言ったような意味での成功を味わえているといいなと思います。