BICULTURAL SOULS
#6 | Feb 28, 2017

育ての母と祖国イランを離れ来日するも、野宿や壮絶ないじめを経験。暗い過去と強く明るく生きる今を女優のサヘル・ローズが語った

Interview: HAMAO / Text, Photo & Video: Atsuko Tanaka

様々な分野で活躍する日本在住の外国人の方々をインタビューし、日本と祖国の文化の違いなどをお話し頂くコーナー“Bicultural Souls”。第6回目のゲストは、イラン出身の女優、サヘル・ローズさん。児童養護施設で育ったサヘルさんは、7歳の時、現在の母に引き取られる。翌年、母と二人で日本に渡り、小、中学校時代に受けたいじめでは辛い思いもたくさんするが、高校で良き教師との出会いによって自身が変われたと言う。その後、J-WAVEのラジオ番組でレポーターを経験したことをきっかけに、現在の女優への道を切り拓いてきた。幼少の頃の経験や、小、中学校時代の辛いいじめをどのようにして乗り越えたのか、また、2012年から継続している児童養護施設の支援や、女優としての表現を通して伝えたい想いなど語って頂いた。
PROFILE

女優 サヘル・ローズ / Sahel Rosa

1985年、イラン生まれ。8歳の時に養母と共にに来日。当時通っていた小学校の校長に日本語を学び、高校時代から芸能活動を始めJ-WAVEでラジオデビュー。 現在、7つのレギュラーをこなす一方、映画「東京島」「ペコロスの母に会いに行く」「振り子」「みんなエスパーだよ!」「西北西」、舞台「メルシー!おもてなし~志の輔らくごMIX~」などに出演。公開を控えている作品が現在4本あり、映画、ドラマ、舞台など女優としても幅広く活動を展開。

サヘル・ローズ

サヘルさんはイラン出身で、幼い頃に児童養護施設で生活を送ったそうですが、その頃の生活や生き甲斐はどういったものだったのでしょうか?

施設にいれば食べるものには困らないので良いのですが、一番欲しかった家族や愛というものには欠けていたので、どこかで早く施設を出たいと思っていた部分もありました。小さいながらに早く周りと馴染まないといけない、周りの空気を読まなければいけないと必死だったので、精神的な部分ではすごい早い段階で大人になったと思います。生き甲斐はほとんど失っていたというか、何で私は生きているんだろう?と感じていて、中々引き取り手が現れない中、これから世の中に出た時にどう生きれば良いのかと不安の中で生きていました。

不安と共に過ごす中、持っていた願望や夢みたいなものはありましたか?

一番の願いは、早く引き取り手が現れて、自分の親となる人が欲しいということでした。誰かに自分の名前を呼ばれたいし、抱っこされたいし、ハグをされたいとずっと思っていましたね。お金やものなどではなく、純粋に愛情が欲しかった。そして一人の人間として普通に扱われたいと思っていました。

養護施設の中では、テレビなど外の情報を得る手段はあるのですか?

テレビは一応ありましたが、決められた時間の中で決められたものを見る感じでした。お腹が空いたからといって、勝手に冷蔵庫を開けることも出来ないですし、何をするにも許可を取らないといけなかったです。

フローラさんという女性がサヘルさんを育てると決心され、91年にサヘルさんを引き取ります。その時の気持ちはいかがでしたか?また、フローラさんの信念とはどういったものだったのでしょうか?

私は純粋に「やっとお母さんができた!」という想いと、「やっとここを出て外の世界で普通の子たちと同じようなことが出来るんだ!」という喜びがありました。母は16歳になるまで祖母の元で育ち、小さい頃から「大人になったら恵まれない子供達を救いなさい」と教えられて育ちました。そして大学生になって、働いてお金を貯めて、施設を巡って色んな子供達と触れ合う様に。もし施設で運命を感じる子供に出逢ったら、その子を引き取ろうと決めていたそうで、私と出逢い、私が彼女のことを第一声で「お母さん」と呼んだことをきっかけに、引き取って育てることを決心したそうです。

イランにて。フローラさんに引き取られた後、7歳の頃

当時、フローラさんのご両親はサヘルさんを養子にする事に反対されますが、それでもフローラさんはサヘルさんを一人で育て続けると決心されます。しかし、頼れるものもなく、93年に一縷の望みをかけてサヘルさんと二人で日本へ旅立たれたそうですが、祖国を離れるということに対してどの様に感じていましたか?

私はまだ幼かったですし、自分の家族が他にいるわけでもないから、母について行くだけでしたけど、母は辛かったようで空港でも飛行機の中でもずっと泣いてました。その時は母がなぜ泣いているのか分からなかったんですけど、あとで聞いてみたら、本当は彼女の親に日本に行くのをどこかで止めてほしかったみたいです。でも、好きにしなさいと冷たくされて、もう帰ってこれる場所もないし、とても辛かったそうです。

日本に来る前は日本のことは認識していましたか?

イランにいる頃から「おしん」を観ていたので、日本のことは認識してました。日本に行けるとなった時は、母と二人で「おしんに会える」って喜びました。

実際に日本に来てみて、どんな印象を持ちましたか?

おしんのイメージで日本に来てみたら、全然違ってハイテクだな〜と(笑)。あと、イランは排気ガスまみれの国なので、日本は緑がたくさんあって空気が美味しいと思いましたね。街も綺麗で人々も親切で、何よりも安全。女性二人でも安全に生活出来たのは日本だからだねと、よく母と話してました。

イラン人の方々はどういう気質の方が多いのですか?

日本の方とすごく似てます。おもてなしの心を持っていて、見返りを求めることもなく、他人を喜ばせるのが好きな人情味に溢れる愛情深い人たちが多いです。

最初は日本語が全く分からなくて大変だったと思いますが、言葉が通じない中、学んだことなどはありましたか?

近所の小学校に留学生という形で小学校に入ることになり、最初は普通のクラスに入ったんですけど、まだ日本語が話せず、周りと馴染めなかった私に校長先生が日本語を教えて下さいました。今でもとても感謝しています。

9歳の頃

当時、驚いた日本の習慣などは?

イランでは友達を呼ぶ時にチュッチュッと舌打ちの様なことをするのですが、日本でも同じ様にやったら友達に嫌われてしまいました。逆に私がみんなにやられてびっくりしたことは、親指を立てるグッドサイン。あれはイランでは死んで下さいという意味で、絶対にしてはいけないことなんです。友達が私を励まそうと「グッドだよ〜、頑張れ〜」ってグッドサインをしてきた時は、死ねと言われている様に思えて友達が怖くなってしまいました。実はFacebookで“いいね!”を押す時は未だにドキドキするんです。あと、イランでは神様以外は“様”はつけないので、日本で自分の名前に様を付けて呼ばれた時はびっくりしました。

日本人にはおもてなしの気持ちがあるとされていますが、その様に感じましたか?

私が日本に初めて来た頃は、まだ今の様に“おもてなし”と言葉にされていなかったけど、おもてなしは日本人が昔から持っている心だと思います。小学校の時、私と母は一時期ホームレスになったことがあったのですが、学校の給食のおばちゃんが私たち親子の面倒を見てくれたんです。彼女の家に私たちを住まわせてくれて、ご飯を食べさせてくれて、弁護士を雇って観光ビザから日本に住めるビザを申請してくれました。保証人にもなってくれて、初めてのお家もその方が見つけてくれたんです。おばちゃんとは今でも交流を持っていますが、彼女があの時私たちにしてくれたことも、ある意味究極のおもてなしだと思います。

小、中学生時代にひどいいじめにあったそうですが、辛かった時期は何を拠り所としていたのでしょうか?

小学校6年生の時に埼玉から東京に引っ越したのですが、その頃から周りと馴染めなくなってしまい、いじめが始まりました。ちょうど、日本に住む中東の方達の良くないニュースが多く報道された時期だったし、学校で私以外に外国籍の方がいなかったから、みんな私とどう接したらいいのか分からなかったんでしょうね。最初は笑って済ませられる程度のいじめでしたが、段々とエスカレートしていきました。でも母を心配させたくなかったので、学校から家までの帰宅途中に泣いて、家に着いたら母が好きな明るい私を演じていました。振り返ってみて、あの頃が今までで一番苦しい時期だったけど、あの時期があったからこそ今の自分があると思うので良い経験だったと思ってます。

自殺を考えたこともあったそうですが、そこまで至らずに済んだ理由などはあったのでしょうか?

ある時耐えられずに、もう疲れたと母に告げたら、母も疲れたと泣き始めたんです。母も常に我慢して、頑張って私のために安心できる母を演じていたんですね。母とハグをしたら、すごく歳をとって痩せ細っていたことに改めて気づきました。それまで全てを捨てて私のために生きてきた母に、私はまだ何も恩返し出来ていないのに死にたいだなんて、自分の身勝手さに情けなくなりました。その時、母を幸せにすることが私が生かされている理由の一つなんだと思って、やっぱり生きないといけないと思ったんです。誰かのために生きたいって思ったのはそれが初めてでした。

その後もいじめはなくならず、中学を卒業するまでは大変だったそうですね。

でも、誰かのために生きたいって思った瞬間から、大変じゃなくなるんです。誰かを幸せにするという目標が出来るだけで生き方は変わります。私は母のために生きようと思ったし、私のことをいじめた人達や世の中に対して「見てなさい」って見返したい思いがあった。そして施設の子供達のためにも、いつか私が見本になれるような存在になりたいと思いました。親がいなくても、出生届が出されてなくても、世の中に認められていなかったとしても、自分で道を切り拓くことが出来るから。でも中学時代は本当に地獄の様な毎日だったので、卒業式ではみんなが泣いている中、私ひとり「やっと終わった!ここから解放される!」と喜びましたけどね(笑)。

高校生活はいかがでしたか?

高校は都立の園芸高校に進学しました。学校で育てた野菜を家に持ち帰ることが出来たので、母の血色が良くなりました(笑)。いい先生もたくさんいて、本当に信じられる仲間を持つことの大切さを教えてくれましたね。自分を周りに合わせる必要はないし、本当の自分を周りにさらけ出せば自然と同士が集まるから、ありのままの自分でいなさいと言ってくれました。この高校が私を変えてくれたんです。

高校生の頃、母のローラさんと。イランの民族衣装でペルシャ絨毯の展示会にて

高校3年生の時にJ-WAVEのオーディションを受けたのがきっかけで、「GOOD MORNING TOKYO」で初のラジオレポーターを経験されますが、この仕事を通して学んだ大事なことはどんなことでしたか?

表現方法に決まったものはないということです。教科書や辞書に書いてあるものが全てではなく、自分の感じたことを素直に言葉にする大切さを学びました。レポーターを始めた頃はアナウンスブックに書いてある通りに話していたのですが、それだと私を選んだ意味がないと番組のプロデューサーに指摘され、他の人でもやれることではなく、私にしか出来ないことは何なのかを考える様になりました。例えば青空を言葉にして表現する場合、私は空を見ると野球少年を連想するので、「今日は野球少年が階段を駆け上がってきそうな青空が広がっています」とか、自分が感じることを言葉にして話してみると、サヘルにしか出来ない表現だねと言ってもらえる様になり、嬉しかったです。

その後は女優としてのキャリアを築くために、どのようなステップを踏んでいったのですか?

大学に通いながら、声優の専門学校に通いました。私が日本でお芝居をやるとなると、まず“外国人”という壁が付いて回るので、きちんとしたイントネーションで完璧な日本語を話せるようになりたかったんです。他に、芝居の楽しさも学び、外国人のエキストラとして事務所に登録して、色んな役を経験しました。私の国籍と黒髪からもらえる役と言えば、テロリストか死体の役。実は当時の「奇跡体験!アンビリバボー」や「ザ!世界仰天ニュース」に出ていた死体役はほとんど私なんです。芝居を始めて最初の5、6年は死体の役ばかりやっていたから、死に方はすごく上手いですよ(笑)。他にもある有名な俳優さんが出演するドラマの現場で6、7時間待たされて、やっと呼ばれたと思ったら「肩だけ貸して」と言われたなんてこともありました。ちょっと悲しかったけど、「私もいつかこの線の向こう側に行きたい」って、「必ずいつか台詞をもらって、台本に自分の名前が載るようになりたい」と思ってました。

悔しい思いをしたことがサヘルさんの原動力になったんですね。

施設での生活やいじめられたことも含め、それまでの自分の中で悔しいと思ったこと全てが私の原動力になっています。私は小さい時から人の縁に恵まれていて、自分の人生のターニングポイントには、必ず誰かがいて、私を助けて導いてくれました。ここまで来れたのは誰かが次の誰かに繋げてくれたからです。女優の仕事も、レポートを通して色んな人達に出逢って今に繋がっているので、これからもレポーターとしての私も大事にしながら、女優としての私にシフトチェンジしていきたいと思ってます。

今の生業で今後もやっていけると確信出来た時はありますか?

この先も今の仕事でいけるのか、正直なところ未だに分かりません。たまに向いてないと思うこともあるし、これでいいのかと不安に思う時もあります。でも他に何が出来るだろうって考えても、結局これしかないんです。バラエティーは得意ではないので出来ないし、司会もアシスタントなら出来るけど、メインの司会はやりたくない。レポートはなぜ続けられているかというと、出演して下さる人たちの良さを引き出す黒子的な仕事だからです。役者として表現することが好きなのも、自分ではない別のキャラクターになって作品を活かすことが出来るから。結局、私・サヘルは黒子なんです。自分を押し出すよりも黒子でいる方が好きなので、それ以外のことをやるのは出来ないし、苦手です。

10年間レポーターを務めた「スーパーJチャンネル・新東京見聞録」を昨年卒業されましたが、現在の心境を教えて下さい。

すごく悩んだのですが、勇気を持って自分から番組を卒業することを決めました。そのまま続けることも出来たけど、私は悔しい思いをして伸びるタイプなので、居心地の良い現場にい続けたくないんですね。「東京見聞録」の皆さんとは家族のように親しくさせていただいて、5年過ぎた頃からディレクターと言葉を交わさなくても求められていることが分かるようになっていたので、自分の中で10年やりきったら一度終わりにしようと思っていました。親元を離れるつもりで番組を卒業しましたが、見聞録を通して多くの人に私のことを知ってもらえたし、すごく感謝しています。私をレポーターにして良かったと、いつか見聞録の方達に言ってもらえるような仕事をこれからもしていきたいです。

2015年12月にご出演された「徹子の部屋」で、恋愛においては自分のことよりもお母様のフローラさんの方が大事だと語っていましたが、恋愛をしてみたいという思いはありますか?

女性ですし、もちろん恋愛はすごくしたいです。芝居をする上で、恋愛をしていないと分からない感情もたくさんあるし、先輩や監督から「もっと女として傷ついた方がいい」と言われることもあります。もちろん興味はあるんですけど、もし私に彼氏が出来たら母が寂しがるので、まずは母にいい人を見つけてあげたい。母が幸せになって再婚してくれれば、私も次に進めるので、まず母に誰か良い人を見つけるのが私の仕事ですね。

1月に寺山修司作「時代はサーカスの象にのって」という舞台にご出演されましたが、作品について教えてください。

60年代後半に生まれたロック・ミュージカル「ヘアー」を元にした寺山さんの作品なのですが、私はもともと寺山さんの作品やアングラな世界が好きなんです。この舞台では戦争について訴えるんですが、まさに今の世の中に当てはまる内容だと思います。私はセクシーな英語の教師の役で出演しました。

この作品を通して思ったことや、表現する際に気をつけたことなどは?

日本はとても平和な国ですが、世界中の色んなところで難民問題や紛争が起こっていて、多くの子供たちが犠牲になって亡くなっています。そういうことを気づかせられる舞台で、今一番私が訴えたいことが作品に詰まっているんです。話の中に「戦争へ行きたい」という歌が出てくるのですが、私にはあまりに大きな意味を持つ言葉なので、絶対に自分の口から言いたくなく、最初はすごく悩みました。でも、戦争に行きたくて行ってる人はいないし、敵も味方もないというか、自分から見たら敵かもしれない人でも、その人にも家族や子供がいて、同じようにみんな戦争の犠牲者なんですよね。だから舞台の上で、この世には正義も悪もないんだということを訴えたいと思いました。家族を失ったり、死をも考える程のいじめにあったけども、それが今こうして生きている私の役割だと思うんです。直接的な言葉で伝えるのはすごく難しいけど、私が育ってきた環境や辛かった経験全てをプラスに変えて活かしたいと思いました。

日本で児童養護施設を支援する活動もされているそうですが、何がきっかけだったのですか?

2012年から「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」という人権を訴えるNGO(非政府組織)の日本代表である土井香苗さんと一緒に、日本の養護施設をサポートする活動をしています。以前、土井さんに日本には約4万人に近い子供達が施設で育っている事実を聞いてとても驚きました。実際に子供達に会いに行って、国籍や施設に入るに至った背景は私と違っても、人として愛情が欲しい気持ちや、社会から弾かれて不安になる気持ちに変わりはないんだなと思いました。今まで私が日本の人達に育ててもらった恩返しとして、これからは私が日本の子供達に何か出来ればと思ったので、支援することを決めたんです。また、いつか自分の国に「サヘルの家」という養護施設を作って誰かの親になりたいと思っています。

サヘルさんの夢は、アカデミー賞を受賞することだそうですが、今はその夢にどのくらい近づいていると思いますか?

アカデミー賞は、自分のためではなく母のためにと思っていますが、その夢には道半ばにも来てないかもしれないですね。日本で女優としてまだそこまで知られていないと思うし、描いたビジョン通りにいかないこともたくさんあって、悔しいと思うこともあります。でも努力はしているから、もし夢が叶わなかったとしても恥ずかしいとは思いません。生きているだけでもありがたいことだから、今この瞬間を本気で生きることを大事にしていきたいです。

それでは、サヘルさんにとって成功とは?

成功とは失敗をすることだと思います。失敗をして初めて次の道が見えるし、失敗出来ることで成功に繋がると思うから、成功は失敗をたくさんして次に行くためのステップだと思います。

最後に、日本社会と世界全体に対して、変化が必要だと思う点を教えて下さい。

世の中、社会に対する認識です。例えばドイツのメルケル首相は難民の母と言われていて、多くの難民を受け入れています。(2015年に戦争や紛争などを理由に自分の国を追われた難民の数は史上最多の6530万人。そのうちドイツは100万人以上の難民を受け入れた)日本は、2015年に7500人以上の難民が申請した内、受け入れられたのは27人とごくわずかでした。日本でも震災時に一時期家に帰れなくて帰宅難民と呼ばれた人達がいましたが、難民と呼ばれる人たちはその様な状況に何年も置かれています。もし自分や自分の子供がそうなってしまったらどうなんだろうって、一度自分に置き換えて考えてみて欲しいと思います。他人任せではなく、個人がどう世の中に関わっていくべきか、一人ひとりが考えるべきだと思います。

Sahel Rosa’s official info