BICULTURAL SOULS
#4 | Oct 25, 2016

来日31年、日本文学研究者・東大大学院教授のロバート キャンベルが足跡とANTEPRIMAとのコラボや、日本の未来予想図を語る

Interview: Satoshi Castro / Text & Photo: Atsuko Tanaka / Video: Hideaki Sakurai

様々な分野で活躍する日本在住の外国人の方々をフィーチャーし、日本と祖国の文化の違いなどをお話し頂くコーナー“Bicultural Souls”。第4回目のゲストは、アメリカ出身の日本文学研究者・東京大学大学院教授のロバート キャンベルさん。カリフォルニア大学バークレー校で偶然学ぶことになった日本美術を通して、日本文学に興味を持つ。その後、進学したハーバード大学大学院では江戸文化について研究を始め、大学3年生の時に1年間東京に留学。85年には九州大学文学部に研究生として二度目の来日を果たす。2年の滞在予定が10年となり、その後は国立・国文学研究資料館助教授を経て、2000年に東京大学大学院助教授に就任する(2007年から同大学教授)。文学に留まらず、テレビやラジオ、ファッションの分野などでも幅広く活躍するキャンベルさんの生い立ちから、日本美術や江戸文化との出会い、留学時代の生活や研究生の頃の話、2016年夏に発表した「ANTEPRIMA」とのコラボレーションや、日本社会の未来などについて語って頂いた。
PROFILE

日本文学研究者・東大大学院教授ロバート キャンベル

ニューヨーク市出身の日本文学研究者。江戸から明治時代の日本文学が専門で、とくに19世紀の都市空間と人の心に強い関心を寄せている。また、文芸ジャンルを超えて、日本の芸術、メディア、思想などにも造詣が深い。テレビでMCやニュース・コメンテーター等をつとめる一方、新聞雑誌連載、書評、ラジオ番組出演など、さまざまなメディアで活躍中。

ロバート キャンベル

ニューヨークのブロンクスで生まれ育ったそうですが、小さい頃の夢や、どのような環境の元で育ったのか教えてください。

私の祖父母はアイルランドからの移民で、私はアイルランド系アメリカ人三世として育ちました。ニューヨークは最もコスモポリタンな都市として、世界中の国の人達が周りに住んでいましたが、私たちはアイルランド系カトリック教コミュニティーの完結した世界の中で生活していました。少年の頃は夢を持つことは特になく、ニューヨークのブロンクスというとても危ない地域で、とにかく無事に生き抜くことで忙しかったです。

キャンベルさん、4歳の頃

ご両親が別れた後はお母様と二人暮らしだったとのことですが、お母様はどんな方で教育方針はどういった感じでしたか?

母は、アイルランドの古い世界からアメリカに渡ったアイルランドの人達に囲まれて育ちました。60年代に入って、女性が自由に主体的に生きられる時代になり、その頃仕事をしていた母は、一人の女性として新しい世界でどう自己表現していくかということと、母の両親の古風な考えの板挟みにあっていました。私への教育はほとんど放任主義でしたね。私が通っていた小学校は教会の付属校でしつけが厳しく、悪さをするとシスター達に呼び出されるのですが、母はいつも割と大目に見てくれて、私の味方でいてくれました。勉強に関しても、「もっと頑張れば出来る」と言うことはあっても、教育ママの様に「勉強しなさい」と言われたことは全くなかったです。

大学はカリフォルニア大学バークレー校に入学されて、日本美術を学んだそうですが、なぜ日本美術を選んだのですか?

大学ではフランス語やドイツ語以外の外国語を学んだり、得意でなかった数学を勉強するなど、高校でやらなかったことや出来なかったことに挑戦してみようと思ったんです。そうすれば何か新しい扉が開くんじゃないかと思って。それで、統計学やコンピューターサイエンスと、それまで僕の視界に全くなかった日本美術を選びました。きっかけは特になく、気分でした。

その日本美術の先生に「美術を知るためにはまず言葉を覚えなさい」と言われて、日本語を学び始めたそうですね。美術と言葉というのは、違う世界のことの様にも思えますが、それは日本美術と日本語だからなのでしょうか?

最初に先生に言葉を学びなさいと言われた時は、大学の先生だからそう言ってるんだと思って、納得できなかった。ですが、日本文学や前近代の古典文学を勉強し始めてみて、室町時代や桃山時代の初期の図屏風のほとんどは言葉で出来ていることに気付きました。と言っても、実際に言葉が書かれていることはないのですが、例えば絵の中で人々が出会って語り合っていたり、喧嘩をしていたり、恋文を取り交わしている中に典故表現(遠い過去から今に伝わる由緒ある事柄や儀式、習慣などを表す)が使われています。また、17世紀の京都の景色は、例えば伊勢物語の世界を引用して描かれていますが、そういうことも伊勢物語を読んでいなければ、絵の全てを理解することは出来ないんですね。その時代に生きた人達の原文をたくさん読み込むことで、絵が立体的に見えてくるようになる。先生が言っていたことは“Bimedial(両方の中間)になりなさい”ということだったんだと、10年くらい経ってようやくその意味が分かるようになりました。

大学3年生の時に、1年間の留学をしに東京にいらしたそうですが、当時(79年)に留学するということは一般的なことだったのでしょうか?

アメリカではごく普通のことで、特に文系の人達の多くは3、4年生になると留学していました。バークレーは出る方も迎える方も留学がすごく盛んで、日本も経済的に成長した時期だったので、日本人の留学生も多かったです。逆に、私のように日本に留学した人はあまりいなかったかもしれないです。

当時の東京という街や日本人は、キャンベルさんにどのように映りましたか?

僕は、“僕がいて、日本人がいて”という風に日本人を意識することはあまりしませんでした。人種的な特徴に違いがあって、そういう人達が周りに多くいると感じることはあっても、日本人を「日本人」として特別に意識しないというか、一人ひとりに接しようと努めました。カルチャーショックもなかったです。世の中の多くの人達は自分でカルチャーショックを作っているのかもしれないですね(笑)。

その頃はどのような生活を送っていたのですか?

出会う人達との触れ合いや、本を読んだり、芝居を見たり、日本の景色を見てたくさんのことを感じたりと、刺激に満ちた1年を過ごしました。ニューヨークやサンフランシスコではあまり通うことのなかった本屋さんに行くのも好きでした。アメリカの本はハードカバーとソフトカバーがありますが、日本でいう文庫本はないんです。日本の本屋さんには、文庫本が出版社ごとに色分けされて、著者のあいうえお順に綺麗に配置されていますよね。その光景が僕にとっては、すごく新鮮で面白かった。本屋で景観を楽しんで、それを作っている世界観が何を意味するのかを考えるのが好きでした。

留学後はアメリカに戻り、81年にハーバード大学大学院へ進学。その頃から江戸文化に興味を持ち始めたそうですが、なぜ江戸時代だったのですか?

江戸時代に生まれた人達の作品と世界観をすごく面白いと感じたからです。例えば夏目漱石は江戸時代の最後の年に生まれ、江戸の教育や感覚を持つ近代の日本を代表する作家ですが、漱石の感覚や感性を追体験するためには江戸のことを知る必要性を感じました。他にも坪内逍遥や、森鷗外、樋口一葉など、彼らが何を通して日本語を身につけて、日本語をどう展開しようと考えていたのかを知るために、江戸時代の文化・文政期、天保期、幕末を行ったり来たりしながら、江戸の文化を研究しました。

その後、ある教授の元で学びたいと強く思い、85年(当時27歳)に九州大学の文学部に研究生として再び日本へいらしたそうですね。

僕はそれまでたくさんの江戸文学の研究を読んで準備をしてきたつもりだったのですが、その教授は僕が当時一番興味のあった研究や資料から、誰も気付かないようなことを発見して、ものすごく大きなビジョンを示されていたんです。中野三敏教授という方で、先生の域に近づきたいとずっと思っていました。

その頃は、将来の拠点はどこにするかなど考えていたのですか?

当初は将来のことなど何も考えていなかったです。日本に来て1年ほど経った頃に、福岡女子短期大学で教えていた先生が病気になり、私が代わりに非常勤講師として国文学を教えることになりました。研究生として来た留学生が、1年で日本文学の授業を任せてもらえるなんて普通はありえないですね。突然のことだったので私に出来るのか不安でしたが、万全な準備をして、江戸後期の文学作品について講義をしました。悪戦苦闘しながらでしたが、頑張れば自分にも出来るというのが分かり、先生が復帰した後も続けることになりました。その後はアメリカに戻って、どこかの大学に就職することも考えたのですが、日本にいないと出来ない歴史的な文学史の研究はとても意義のあることだったので、そのまま博多に居続けることになり、2年くらいの滞在予定が結局10〜11年となりました。

九州大学に研究生としてきた時

九州大学で学んだ後は、国立・国文学研究資料館助教授を経て、2000年に東京大学大学院助教授に就任されました(2007年から同大学教授)。現在はテレビやラジオなどでも活躍されていますが、どのような経緯でメディアでもご活動されることになったのですか?

元々僕は、文系の中でも特に地味な調査と、文献を掘り起こしての実証的な研究をしていたので、メディアからとても遠い所にいました。東大に助教授として就任した2000年頃までに、色んな大学では文学部が改変され、文系学は虚学で、実学と呼ばれる経済学や法学のように実際に役立つものではないという実学思考が強くなっていった頃でした。それはまずいと思い、実証的な研究を積み上げていくのと同時に、人々にきちんと伝えることの必要性や大切さを感じました。東日本大震災が起こった時は、今まで私が研究してきた文献の中にも人々の心の不安や暗い気持ちを救ったり、閉塞感を和らげる言葉があるかもしれないと思い、もっとメディアでも活動していこうと思ったのです。

東大大学院助教授に就任されてから16年経ちましたが、今はどの様なことを達成したいと思っていますか?

東大は専門家を育てていくには非常に良い環境なので、世の中に変化をもたらす人材を一緒に育てるプロセスに関わっていきたいです。昔と比べてとてもグローバルな環境になり、海外の研究者達と多くの共同研究をしています。夏にはUCLAで全国の学生達と一緒に一週間ほどワークショップをやりましたが、国内、海外問わず学生達を巻き込んで、一緒にプロジェクトをする機会も多く増えています。遠心力を発揮しながら、これから何が重要なのか、重要でないのかを考えていきたいと思います。

7月末には「ANTEPRIMA」とコラボして、ジェンダーフリーのニットウェアコレクションを発表されましたね。反響はいかがでしたか?

ファッションメディアの方達やスタイリストの方々にもとても良い評判を頂いてます。これまでANTEPRIMAは女性の憧れのファッションブランドとして、多くの女性達に着用されてきました。ある夕食会でANTEPRIMAのクリエイティブ・ディレクターの荻野いづみさんと話した時に、メンズラインも是非作ってほしいという話しをしたら、私が作るという全く予想もしなかった展開になったんです。そうして、私がANTEPRIMAで初めてメンズウエアを手掛けることになったのですが、作っているうちにANTEPRIMAの女性スタッフからも欲しいという声が出て、女性も着やすいサイズも作ろうとジェンダーフリーのコレクションとして展開することになりました。

どんなことを意識してデザインを考えたのですか?

働く日本の男性のことを考えて、オンとオフをまたげるものがいいと思い、このようなデザインを提案しました。例えば僕は、朝はテレビ番組に出演して、昼は東大で会議を招集し、夜はパーティーに出かけるなど、一日の間に色んな場所に出かけることがよくありますが、なるべく着替えをしなくて済むもので、ビジネスの場面で通用する服として、カジュアルだけど社会性があって少し着回しすれば夜もそのままの格好でいられるものを作りたいと思いました。ANTEPRIMAが一番得意とするニットを使って、編み方も縫製も世界のどこのブランドにも負けないくらいの技術を使って作りました。

Mr. Robert Campbell×ANTEPRIMAコラボレーション ユニセックスニット

ファッションは元々お好きだったそうですが、好きなブランドやスタイルなどありますか?

僕はスタイリストを付けないので、いつも私服なんですが、色んなスタイルが好きです。黒ベースも好きですが、色を使うのがすごく好きですね。好きなブランドはデザイナーによって変わりますが、ここ2、3年のグッチはデザインも色も形もすごく面白いので好きです。ジル・サンダーもミニマルなラインの美しさや綺麗な構築美を追求していて好きですね。デザイナーはラフ・シモンズや、kolorの阿部潤一さん、sacaiの阿部千登勢さん、MIHARAYASUHIROの三原康裕さんなどが大好きです。年2回のコレクションを通して彼らが貫ぬく姿勢を見ていると刺激されて、ファッションとは関係ないところでインスピレーションを受けることがあります。

それでは日本に住んで31年、振り返って今まで一番辛かったことは?

一度大きな病気をした時です。辛い経験でしたが、医療とリハビリを日本で経験し、人々に助けられたり、自分の寿命や身体が無限ではないと思い知ることが出来たので良かったです。

日本語の好きな言葉、母国語で好きな言葉を教えて下さい。

日本語は「ゆらぎ」とか「ゆらぐ」、「そよぐ」、「泳ぐ」など、が行で終わる動詞の言葉が好きです。英語はラテン語語源の言葉で、Resilience(跳ね返り、弾力など)という言葉が好きかな。日本語にありそうでない言葉ですが、何かが迫ってきた時に全身全霊で当たっていくのではなく、柔らかくしなかやに返していく力を意味します。日本は過去に色んな震災や天災がありましたが、歴史を振り返ると日本人はすごくResiliant(跳ね返る、たちまち元気を回復する)だと感じますね。

日本社会と世界全体に対して、変化が必要だと思う点を教えて下さい。

日本社会も欧米社会もそうですが、寛容さを持つことが大切だと思います。自分と違う人達と共存するのに、ポジティブな可能性を見い出すのはかなりのエネルギーを必要としますが、自分と違う人を排除するのではなく、その違いは自分とどう繋がっているのか、お互いに協力し合うためにどうするべきか考える必要があるように思います。消極的ではなく積極的に寛容であることは、世の中だけでなく、自分自身や自分の家族を良くしていくために大事なことだと思います。

母国以外の国で何かを成し遂げて成功するために必要な心構えを1つだけ挙げるとしたら何ですか?

他文化の中で他言語を身につけて、何かを成し得ようとする過程には、ものすごく恥ずかしい思いをしたり、挫折を味わうことがあります。喧嘩に負けたり、仕事も恋愛も上手くいかなかったりという経験をしますよね。ですが、その時に「負けた」と思わず、コツコツと自分のやるべきことを続けていけば、いつの間にか周囲とのバランスがとれる日が来ると思います。

キャンベルさんにとって成功とは何ですか?

僕にとっての成功は、朝起きた時にその前日に出した成果を次の仕事に繋げられたり、人との出会いを次に繫げられたと実感出来た時。人によって、多くの収入を得ることや仲間が増えることなど、指標は色々違うと思いますが、僕にとっては自分が今やっていることを持続して良い方向に物事が深まっていき、気流のようなものが作れていれば成功だと思います。

文学の世界だけにとどまらず、色んな世界に挑戦していらっしゃいますが、まだ実現出来ていないことで新たに取り組んでみたい分野はありますか?

分野ではないのですが、身体的な動きをもう少し改善したいと思っていて、最近はサップ(SUP-Stand Up Paddleの略) に凝っています。アメリカに住んでいる妹が10年前からサップをやっていて、すごく上手なので教えてもらい、何とか落ちずにパドルがこげるようになりました。風のない遠浅の海では、水上を歩いてるような感覚で下の地形や魚などが綺麗に見えて、とても気持ちがいいんです。いつかサップで日本の湖や川、池を廻れたらいいですね。あとはサップをやりながら写真を撮ったり映像を撮ったり、読書会をやったりとパフォーマンス的なことが出来るようになったら面白いなと思います。そうなるにはまだまだ時間がかかりますが(笑)。

最後に、キャンベルさんの人生の未来予想図、日本の未来について思うことを教えてください。

今まで分節してやってきた学問や社会活動、メディアやファッションでの活動を、今後は鍋料理のように色々な具を混ぜて、そこから何が出来るのかを考えていきたいと思っています。日本の未来に関しては、日本の人口が減っていく中で、さびしさや色んな想いがあると思いますが、減るということ自体は決して悪いことではないと思います。高齢化問題も、医療や雇用の機会を増やし、社会資本のインフラを作り続ければ怖いことではない。むしろ文化的にすごく面白いことが生まれるんじゃないでしょうか。まずは平和であることが大事ですね。

Robert Campbell’s official info