BICULTURAL SOULS
#17 | Sep 24, 2019

師匠、山田耕雨のビジョンを叶えるべく、「少しモダンな墨絵」をもって、日本人に忘れられつつある墨絵の魅力と技術を伝承するイスラエル人墨絵画家

Interview & Text: Minori Yoshikawa / Photo: Atsuko Tanaka

様々な分野で活躍する日本在住の外国人の方々をインタビューし、日本と祖国の文化の違いなどをお話し頂くコーナー“BICULTURAL SOULS”。第17回目のゲストは、イスラエルのネタニア出身で、墨絵画家のイラン・ヤニツキー(Ilan Yanizky)さん。厳格な父とアート好きな母の元、イスラエルとイタリア・ローマで育ったイランさんは、6歳の時から美術に興味を持ち、絵を描き始める。そして、アートを学び、油絵とアクリル画の技術を習得した。その後、ニューヨークの名門美術学校School of Visual Artsに通うはずだったが、イスラエルで初公演を行った日本の現代舞踊グループ「山海塾」のパフォーマンスを観て深い感銘を受け、その翌日に日本への片道航空券を購入し来日。訪れた竜安寺の枯山水庭園に魂を揺さぶられ、日本滞在を決意した。そして墨絵を本格的に学ぶため、墨絵画家・南画院の山田耕雨氏に弟子入りし、16年間師事。現在は、1989年に開いた自身のアトリエ「ヤニツキー墨絵アート教室」にて、西洋の技術を取り入れたモダンな墨絵を教授している。今年で日本滞在歴36年となるイランさんに、幼少期の頃のことから、来日することになったきっかけ、また、日本と墨絵の魅力や、日本で叶えた夢についてなどを語ってもらった。
PROFILE

墨絵画家 イラン・ヤニツキー / Ilan Yanizky

1955年イスラエル生まれ。イスラエルとローマで幼少・青年期を過ごし、76年からローマ・アート・アカデミーにて美術を学ぶ。その後、ロンドンで1年ほど暮らしたのち、イスラエルに戻り、テルアビブ・アート・スクールで美術を学んだ。日本の現代舞踊グループ「山海塾」のパフォーマンスを観て深い感銘を受け、83年に初来日。そのまま日本で暮らすことを決め、南画院、山田耕雨師に墨絵を師事した。墨絵師範免許を取得し、89年より自身のアトリエにて、墨絵、書道、篆刻を指導。ヘブライ語、イタリア語、英語、日本語を話す。太極拳においても都大会、全国大会で入賞。

イラン・ヤニツキー

イスラエル中部の街、ネタニアで6歳まで育たれたそうですが、その頃の思い出はありますか?

エルサレムに次ぐ大都市テルアビブから30キロ離れた、海が綺麗な小さな街です。“イスラエルの熱海”のようなところで、海で泳ぐことが大好きでした。そして、浜辺に座ってボーっと遠くを見ては、いつかずっと遠いところに行こうと思っていましたね。小さい時から仮装パーティーに行くときは、中国人や日本人の格好をしたり、ほとんどのイスラエル人がアメリカに憧れる中、私はアジアの魅力に惹かれていました。

その後イタリアのローマに移り、13歳まで住んでいたとお聞きしてます。そこでの暮らしはいかがでしたか?

街中が芸術品で溢れていて、初めて行ったときはびっくりしました。アートの中に住んでいるみたいだし、美術品そのものの建造物をあちらこちらで見ることができて、小さいながらに強烈な衝撃を受けました。教会に入ればミケランジェロにお目にかかれるんですから、もう二度とイスラエルに帰らないでここにいたいと思いましたね。その頃から絵画に興味を持ち始めて、肉体などの写実画を抽象的に描くのが好きだったんです。

ご両親はどんな方で、どんな育てられ方をしましたか?

父はアートが大嫌いで、頭が固い人。アートを仕事として認めるようなタイプではなかったですね。でも母はすごくボヘミアンで、アート好きだったので、家の本棚にはゴッホなどたくさんのアートの本が並んでました。母が自分のへそくりでコンサートや舞台などに連れて行ってくれたおかげで、私は文化の心を養うことができたんです。学校の勉強は大嫌いでしたが、美術大学に行きたい一心で、かろうじて在学してました。そんな劣等生だった私を母はいつでもサポートしてくれました。

イスラエルで高校を卒業されて、来日されるまではどこで何をされていたんですか?

イスラエルには徴兵制度があるので、高校を卒業してすぐ軍務に服しました。3年間の兵役を終えた1973年に、どうしても忘れることができなかったローマに戻ることにしたんです。小さい時に衝撃を受けたアートの街で一年間遊学し、その後ロンドンに一年行った後、イスラエルに戻って3年間3つの大学に同時に通ってアートの勉強をしました。イスラエルでは、多数の大学に同時に通うことも可能ですし、卒業しても、しないで就職しても良いというように、教育制度がとても自由なんです。私も卒業せずに、1983年にアメリカに留学することにしました。

アメリカにも住んでいたのですか?

イスラエル人はアメリカに憧れていて、ほとんどの人がアメリカに留学するので、私も自然な流れでアメリカに行く準備をしていました。ニューヨークの名門校、School of Visual Artsへの入学手続きも終えて、あとは旅立つだけという時に私の人生を変える出来事があって。旅立つ予定の1ヶ月前に、日本の現代舞踊グループ「山海塾」が初めてイスラエルで行った公演に行ったんです。そのパフォーマンスを見た衝撃はすごいものでした。私はそれまで日本にこんなに素晴らしい、独特のアートがあるなんて全く知らなかったし、3年間美大で勉強していて誰も教えてくれませんでした。日本に直接行ってこの目で見たいという衝動に駆られ、なんと次の日に旅行会社に行って、日本行きの片道航空券を買っていました。それで日本に2、3ヵ月滞在した後、遅れてアメリカに行くつもりだったんですが、そのまま日本にいることになったんです。

それはどういう経緯で?

日本に魅了されちゃったんです(笑) 。今考えると大変なことはいっぱいありましたよ。日本語は一切話せなかったし、知り合いも一人もいなかったのに、どうにかなっちゃうんですから若さってすごいですよね。当時“外人ハウス”と呼ばれていた、貧乏な外国人が住むシェアハウスの四畳半の部屋で貧乏生活を送っていたんですけど、もう楽しくてしょうがなかったです。街の色も、匂いも、人も、ファッションも、何もかもが新鮮でした。

カルチャーショックなことはありませんでしたか?

もっとオリエンタルな風景を想像していたのですが、成田に降り立ったら、みんな背広を着て、街には高層ビルが建っていて、ヨーロッパとあまり変わらないのでがっかりしましたね。でもその後すぐ京都に行って、伝統的な風景を見て感動しました。特に、竜安寺で枯山水庭園を見て大きな衝撃を受けましたね。それがきっかけで、日本に滞在することを心に決めたといっても過言ではないです。残された余白のバランスにしても、石の配置にしても、すごくモダンで、深みがあって、あれこそ神秘的な日本文化の極みだと思います。私が日本で一番好きな場所です。

枯山水は禅の文化の象徴とされていますが、墨絵も禅との繋がりがあるのですか?

禅の影響を受けているものは、合気道、華道、書道、茶道というように、みんな「道」という字がついていますよね?墨絵と水墨画にはなぜか「道」が付いていないんですけど、明らかに、禅の要素が含まれているんです。だからこそ、空白の残し方などに共通する美がありますし、魂が入っていて西洋美術にはない深みがあります。

他に日本のことで気に入ったことはありましたか?

街を歩いていて見えるものの一つ一つや、食べ物も、それが乗ったお皿も、全てがとにかく美しくて、その都度ショックを受けてました。「住めば都」という言葉があるように、私は住む土地はそれほどより好のみしないのですが、その地や文化がどんなに美しくても、そこにいる人々の心が美しくなかったら、決して好きにはなれないんです。日本人も、最初はなんて不思議な人種かしらと思いましたけど、親切な心、笑顔、暖かさには衝撃的な感動を受けました。また、日本のサービスの良さは世界でも類を見ないと有名ですね。イスラエルでは、サービスが悪いのではなく、サービスというものがそもそも存在しないんです。

類を見ないと言えば、日本の治安の良さもそうですよね。

日本人は当たり前のことと思ってますけど、こんなに安全な国、他にないですよ。小さい子供が一人で電車に乗って学校に行くなんて、他の国ではありえないですからね。イスラエルにいると何かしら心配したり緊張していないといけないから、リラックスできる瞬間なんて一瞬もないんです。それは多かれ少なかれ、他の国でも同じだと思います。こんなに心配することなく、リラックスして日常を過ごせるということは、すごいことなんですよ。平和ボケって非難する人もいるけど、これこそが完璧な国の在り方だと思います。

どんなに恵まれているか気づき、感謝しなくてはいけませんね。それでは、墨絵との出会いについて教えてください。

日本に来てすぐにカルチャーセンターなどでレッスンを受けて、自分の墨絵に対する情熱を感じ、本格的に習えるお教室を探し始めました。なかなか見つからずでしたが、2年経った頃、知り合いから墨絵画家・南画院の山田耕雨先生を紹介していただき、弟子入りさせて頂くことができたんです。山田先生は伝統的な墨絵の教え方を全うされていた方だったので、伝統に倣って畳の上に正座して描かなくてはならなくて、私にはもうそこからがチャレンジでしたね。

床に座る習慣のない方には大変なことですよね。他に苦労したことはありましたか?

墨絵の伝統的な伝授方は、「見て真似て習え」で、とにかく同じことを何度も繰り返しやって技術を身につけていきます。竹の描き方を習ったら、何週間もそればかり繰り返し描いてその技術を習得していくという、日本の昔からある教え方です。西洋人は常にオリジナリティーを追求することを重んじられて生きてきたので、真似るということが苦手なんですね。そろそろ苺が描いてみたいと思っても、 竹の次は蘭を、その次は梅をひたすら描くという作業を、先生が亡くなるまで延々とやりました。これぞ「石の上にも16年」ですよ(笑)。

左:師匠の山田耕雨氏の教室にて(87年) 右:南画院東京都知事賞を授賞した時の様子(92年)

そんなに大変な修行をどうやって16年もやり続けることができたんですか?

それはもう墨絵マジックですね。手品でウサギが出てきてびっくりするように、山田先生のすること全てが手品の様だったんです。私はもう完全に墨絵の虜になって、毎日が楽しくてしょうがなかった。そして16年かけてやっと私もその手品ができるようになって、今は私のやることに生徒さんがびっくりして魅了されています。本当に墨絵は魔法なんです。

山田先生から学んだことで、今でも大切にしていることはなんですか?

来日した時に油絵とアクリル画の道具を持ってきたんですけど、あるときその道具のほとんどを捨てちゃったんです。そうしたら山田先生にひどく叱られました。そして、これまでに習得してきた油絵や西洋絵画の技術、文化などを墨絵の中に取り入れていかなくてはいけないと言われました。墨絵画家として生きていく上で、私の個性を生かしていくようにと、自分のことを認めて下さっていることが伝わってきて、とても嬉しかったです。私は当時、伝統技術を習得することしか頭になかったのに、先生は、私が墨絵に西洋の技術を取り入れて、新しいスタイルを生み出すことで、墨絵の魅力を現代の人たちに伝えていくというビジョンがきっと見えていたんですね。その教えがあったからこそ今の私があるんです。

今まで墨絵をやっていて一番嬉しかったことはなんですか?

2009年に南画院東京都知事賞を頂いたことですね。それから私の人生が180度変わったんです。自分のお教室は1989年から開いていましたが、それを機に生徒さんは一気に増えました。そして永住権も獲得できることになり、NHKの番組出演依頼や、銀座スエヒロを始めとするレストランからの壁画の依頼、鬼怒川温泉にあるホテル全部屋に飾る絵65点の注文などが来るようになりました。

受賞した南画院東京都知事賞のメダル

今ほど外国人が少なかった1989年に、外国人として、日本の伝統である墨絵の教室を開くのは大変ではなかったですか?

最初は主に外国人向けに教室を開いていて、日本の文化を習いたい外国人が来てくれていたんです。そこに、英語で外国人と触れ合いたい日本人の人がちらほらと来てくれるようになりました。でも2011年の東日本大震災の直後、外国人の生徒さんたちがほとんどみんな母国に帰ってしまって、一瞬にして生徒さんの殆どを失ってしまいました。途方に暮れていた時、ある制作会社からテレビ番組出演の話を持ちかけられ、ちょうどその頃始まった、日本テレビ系番組「シューイチ」で私の教室が取り上げられたんです。番組MCの中山秀征さんが私の教室に来て、墨絵の体験をしている様子が放送されたんですけど、なんとその日だけで、700人を超える視聴者の方たちから問い合わせの連絡が来ました。中には直接訪問して来る人たちまでいて。それを機にたくさんの生徒さんが一気に入会してくださって万事休すでしたね。

文化を継承していくことの大事さについて思われていることを教えてください。

「日本の文化を継承していてすごいですね」と言われたり、感謝されたりするんですけど、私はあくまでもアーティストとして自分の為にやっているのであって、日本の為にやっているつもりではないんです。日本人の多くの方は、墨絵に対してカッコいいという印象は抱いてない人みたいですね。海外の人から見たらこんなに斬新で美しいものはないのだから、もっと自国の素晴らしい文化に誇りを持って、大事にして欲しいです。でもね、私の墨絵を見て、こういう墨絵だったらやってみたいと言ってくださる日本人がたくさんいらっしゃるんですよ。少しモダンな要素を取り入れた墨絵を描いて教えることで、忘れられかけている墨絵という、素晴らしい伝統文化に興味を持ってくれる人が増えるのだったら、とても光栄なことだと思います。

左:自身のアトリエ「ヤニツキー墨絵アート教室」右:こくみん共済 coop ホール (全労済ホール)/スペース・ゼロで行われた展覧会の様子(2014年)

それこそ山田先生がイランさんに思い描いた夢だったのかもしれないですね。それでは、日本人を含め、世界中の人たちに知って欲しい墨絵の魅力を教えてください。

最近世界のアート界では、同じ時代に制作していた雪舟(せっしゅう。室町時代に活躍した水墨画家・禅僧)とレオナルド・ダ・ヴィンチがよく比べられていて、雪舟はテクニックにおいてレオナルドを完全に超えていたと騒がれているんですよね。独特なバランスの取り方などは、日本人にしかできない素晴らしい感覚だと世界中で注目を浴びているんです。葛飾北斎の「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」などの代表作もロンドン大英博物館でも展示されて、すごい反響を呼びました。そうやって日本の文化は、海外では受けるべき評価をちゃんと受けてます。日本人は、文化背景的に劣等感を感じやすいところがあると思いますけど、目新しい海外のものにばかり目を向けるのではなく、古くから受け継がれてきた独自の文化の尊さを再発見していって欲しいです。

おっしゃる通りです。イランさんにとって、残していって欲しい日本の良さはどういうところですか?

最近イギリスで 、“Planet Japan”「惑星日本」という、日本に対する新しい敬称が作られたそうなの。日本の全てが、他の国には類を見ない独特なものだから、国じゃなくて惑星として見なされたのね。こんなに近代的大都市である東京で、古いものと新しいものが共存しているのはすごいですよ。高層ビルの下には昔ながらの屋台が並んでいるし、銀座でちょっと横道を入ればタンポポが咲いていて、その横を猫が通っていたり、神田川が流れる風流な景色、谷中のような昭和な町並み、渋谷でハクビシンや猿を見ることだってある。これから日本の政府には、そういうものを残していくことに力を入れて欲しいですね。ヨーロッパで、どんなにボロボロになったビルも壊さないで法で守って保存しているように、取り組んでいって欲しいです。日本は地震が多いので難しいところもありますけど、できる限り守って欲しいですね。

イランさんは日本に長く住んでいらっしゃいますが、日本に居ながら大切にしているイスラエルの文化はありますか?

ユダヤ人の知恵や、知力、文化は大事にしてます。旧約聖書の物語は宗教の一部と思われてしまっているけど、実は源氏物語のようなラブストーリーで、人生の教えがとても読みやすく面白おかしく書かれているんです。ウィットでユーモアに溢れていて好きですね。仏教の教えなども大好きだけど、小さい頃からそういう知力を養い育つことができて光栄ですし、ユダヤ人に生まれて良かったと思います。

素敵ですね! ヘブライ語で好きな言葉はありますか?

“Lehaim(レハイム。乾杯 )”です。 日本語のように、ヘブライ語も一語一語意味があり、ハイムはLife(人生)、レはFor(~の為に)という意味です。私は、とっくりとおちょこの絵が好きでよく描くのですが、そこに「人生の為に」という意味のLehaimを書くのが乙で好きなんです。

では、日本語で好きな言葉は何ですか?

以心伝心に決まってます(笑)。 英語に訳すと“Communication without words”(言葉なしのコミュニケーション)となるけど、西洋人が本当の意味での以心伝心するのは難しいと思うんです。言葉なしで伝えるのは、思いやりの心や気配りの心を持っていなくてはできないことで、相手の気持ちを理解しようとする心なしでは実現しないから。日本人はとても平和な心と調和を備えていて、常に相手を理解しようとしているから可能なんですね。

イスラエルで行くべきおすすめの場所を教えてください。

エルサレムは世界一美しい街と言われているだけあって本当に綺麗。オリーブの丘の上にあるインターコンチネンタルホテルのレストランで、ビュッフェランチを食べながら一望できるエルサレムの街は圧巻ですよ。ユダヤ人にとってもアラブ人にとっても聖なる町と崇められるエルサレムの燦爛たる全貌を、是非みなさんに見て欲しいですね。

それでは、社会で起こっていることで気になることはありますか?

先日、拉致被害者の横田めぐみさんのご家族とお話しする機会があって、とても考えさせられました。イスラエルにもレバノンやヨルダンのような国に拉致された人はたくさんいるのですが、政府が全力を上げて取り込み、たくさんの被害者たちを自国に連れ戻すことに成功しています。日本の政府も力を入れてはいるけれど、もっと真意を見せることができたら、若い世代からの信頼を得ることもできると思うし、いい風が吹くんじゃないかなと思います。

では、人生において大切にしていることはなんですか?

私は、かわいいお爺さんになりたいんです(笑) 。生徒さんに「イランさんには無理ですよ!」なんて言われちゃってますが…。最近やっと気づいたんですけど、墨絵って本当に難しいんですよね。私にも昔は難しかったのかもしれないけど、忘れちゃってたみたい。だから最近はなるべく怒らず親切にしてます(笑) 。

イランさんならきっとみんなに愛されるかわいいお爺さんになると思います!それでは最後に、イランさんにとって成功とはなんですか?

もう夢は叶ったので、これ以上は望みません。好きな仕事をさせてもらっているし、何十人もの生徒さんがついてくれている。日本で、こんなお教室を持つことができるなんて、若い頃の私は夢にも思ってなかったもの。昔から日本の偉大な画家たちは、小さな工房で地道に制作してきたんです。私にとっての成功は、ニューヨークなどで大きなロフトのアトリエを持つことではなく、この小さなアトリエで、たくさんの素敵な生徒さんに囲まれて、自分の描きたい絵を描き、自由でいることです。それはつつましい国、日本ならではの成功だと思います。

Ilan Yanizky official info