BICULTURAL SOULS
#18 | Dec 25, 2019

上越を愛するチェコ人ソーシャルワーク研究者が語る理想の終末期とは。アジアに見合った福祉を確立すべく研究に勤しむ

Interview & Text: Minori Yoshikawa / Photo: Atsuko Tanaka

様々な分野で活躍する日本在住の外国人の方々をインタビューし、日本と祖国の文化の違いなどをお話し頂くコーナー“BICULTURAL SOULS”。第18回目のゲストは、チェコ共和国のオブジーストビー出身で、千葉淑徳大学准教授、アジア国際社会福祉研究所 上席研究員の郷堀ヨゼフ(Josef Gohori)さん。ヨゼフさんは、薄汚く灰色で暗い印象しかなかったという独裁政権目下のチェコスロバキアで、サッカーや川遊び、凍った池でホッケーなどをして育ちました。カトリック教徒だった祖母と秘密警察から隠れるように教会に通った経験もあり、小さい時から人間の存在を超える神の存在を信じていたと仰います。そして16歳の時、40年続いた独裁政治が終ろうとしていた歴史的瞬間に、体を張って報道するジャーナリストたちに感銘を受け、記者になるべく大学に入り、社会科学を専攻したそうです。在学中、徴兵制度の一環で行ったホスピスでの社会奉仕活動で、誰しもが直面する死や理想的でないターミナルケアの現状に直面し、抜きんでた日本の福祉に興味を持たれます。その後、研究を兼ね、2005年に上越教育大学へ留学するため来日したまま、上越に在住し早14年。現在は千葉淑徳大学で教授し、アジアに見合ったソーシャルワークの在り方を確立するべく研究に従事 する日々を過ごしています。理想の終末期とは、その人個人が望む終末期であると語るヨゼフさんに、ソーシャルワークに興味を持ったきっかけや、死について周りの人と話すこと、そして人との関係性を築く大切さなどについてお話を伺いました。
PROFILE

淑徳大学准教授 郷堀ヨゼフ/Josef Gohori

1979年にチェコスロバキア(現在、チェコ共和国)に生まれる。新潟県上越市在住。 2000年にカレル大学社会科学部卒業後、2007年カレル大学哲学部門日本研究学科修了(修士(文学)取得)、2011年兵庫教育大学大学院連合学校教育学研究科(配属大学:上越教育大学)修了(博士(学術)取得)。 国際日本文化研究センター特別利用共同研究員、上越教育大学専修研究員を経て、現在、淑徳大学准教授。 主にターミナルケアについて研究しながら、医療と福祉の文化的背景を追究。近年、終末期鎮静やACPに関する調査のほか、仏教とソーシャルワークをキーワードにアジア10カ国以上の国際共同研究を統括を行っている。 日本死の臨床研究会、日本仏教看護・ビハーラ学会、Society for Medical Anthropology (アメリカ人類学会)、日本民俗学会、日本社会福祉学会、比較日本文化研究会等の会員。

郷堀ヨゼフ

ご出身は当時のチェコスロバキア(現在のチェコ共和国)だそうですが、どんな場所で育ちましたか? 

プラハ郊外の小さな街、オブジーストビー(Obristvi)で育ちました。大都市のすぐ近くにありながら自然も多い小さな村です。独裁政権の真っ只中だったので、街はグレー一色でした。

3歳の時。自宅にて

印象に残っている出来事や街の情景はありますか?

当時東ドイツには入ることができたので、毎年夏休みにバルト海へ行っていました。国境付近では、まず「地雷注意」の標識が目に飛び込んできて、大きな銃を持った警備員がたくさんいたのを覚えてます。そして1988年に、初めて西ドイツに入国できる許可が特別に下り、家族と知り合いの家を訪ねた時に見た情景は、とても衝撃的でした。東ドイツで厳しい出国審査を受けて、西に入った途端、今までの光景とは真逆の、明るくカラフルな街が広がっていました。厳しい入国検査もなく街へ入ると、艶やかなネオンサインが光り、お店に入れば、色とりどりの品々が陳列されていて感激しました。国境を一歩踏み入れただけなのに、そこに広がるコントラストはとても衝撃的でした。 

子供の頃はどんなことに興味を持っていましたか?

冬は凍った池や川でホッケーを、夏はサッカーや川遊びをしましたね。8歳から高校生まではテニスに熱中していました。自然に触れることも大好きだったので登山もよくしましたね。中学生の時は、友達とキャンプして自炊したり、高校生になると小さなリュックひとつ背負って、ヨーロッパ内を旅しました。若気の至りで、ヒッチハイクでハンガリーに美味しいものを食べに行ったり、完全無計画の旅をしてましたね。

高校の頃。同級生と一緒に

ご両親はどんな方で、どんな育てられ方をしましたか?

母は心優しい人で、高校生なのにグヤーシュ(ハンガリーの郷土料理)を食べにハンガリー行って来ると言って、ひょろっと一か月も姿を消してしまう息子を受け入れてくれる大きな心を持った人です。父は逆に厳しい人でよくぶつかりました。

中学、高校と通っていた学校はどんな学校でしたか?また、当時はどんなことに興味を持っていたかを教えてください。

チェコ中から色々なバックグラウンドを持った子供たちが集まる中高一貫の学校に行きました。良い出会いがあり、いろいろなことを共有できた、とても興味深い環境でした。在学中は、新聞記事を書くことに力を入れて、学校の編集部に所属し、行内雑誌の記事を書いたり、地元の新聞に投稿もしていました。政治社会に興味があったので、新聞記者になろうと、大学に行ったら社会科学を専攻しようと決めたんです。ちょうど40年に渡る独裁政権が終ろうとしている歴史的瞬間に、それを世に報道することに人生をかけている記者たちの姿を見てすごく感銘を受けたからです。

日本に興味を持ち始めたのはいつ頃、どんなきっかけでしたか?

独裁政権下では、海外に行いくことはおろか、パスポートの申請さえも禁じられていたので、国民は情報に飢えていたのですが、政権が変わって急に色々な情報がどっと流れるように入ってくるようになり、みんな貪るように吸収していました。そして、アジアとの貿易も解禁になり、中国や日本などから、お茶の文化が入ってきました。私が行っていた高校の近くにも、アジア各国のお茶を出すカフェができたんです。インテリアもアジア風でとてもエグゾチックで、それも日本への興味を持ったきっかけの一つとなりました。

お茶の他には日本のどういうところに興味を持たれたのですか?

独裁政治時代は宗教の信仰が抑制されていたので、クリスマスやイースターには、カトリック教徒だった祖母と、秘密警察に見つからないよう隠れて教会に行っていました。その影響もあって、目に見えず人間の存在を超える“神”という存在は小さいころから信じていましたし、独裁政権下、共産党や政治家が宗教を非常に怖がり、弾圧をかけていることにも幼いながら不思議に思っていました。その後、16歳の時に独裁政治が終わり、教会の活動も活発になって、アジアの宗教や文化も入って来るようになりました。その頃仏教のことを知り、キリスト教のように神の力を信仰するのではなく、自分で修業して悟りを開くという考えに感動したんです。

高校卒業後、カレル大学で社会科学を専攻されていますが、どのようなことを勉強、研究されていたのですか? 

まず、哲学、社会学、心理学、政治学など様々な分野の基礎を学びました。また、就学の傍ら、非常勤新聞記者としても働いていました。記者会見にも出向いて、政治家の話を直接聞く機会もあり、そこで聞いた政治家の話が翌日の新聞でどう報道されているのか、新聞社によってどれだけ報道の仕方が違うかなど裏の世界を知ることができました。

それは貴重な経験をされましたね。

そうですね。ちょうどその頃開催された長野オリンピックで、チェコがアイスホッケーで金メダルを取ったんです。チェコではアイスホッケーが国技と言っても過言ではないほど盛んですので、それはチェコの国民の心に残る瞬間でした。当時、オリンピック種目の中継と並行して、日本の文化や、暮らしなどについても紹介されていたのですが、それが私の日本への興味を掻き立てました。それから大学内の東アジア研究所で日本の研究も始め、言語学と文化人類学を学び始めたんです。

どうして日本語を勉強しようと思い、どのように勉強されたのですか?

22歳の時1年半休学し、徴兵制度の一環で、ホスピス病棟で社会奉仕活動をしたのですが、そこで初めて高齢者にまつわる問題や、誰しもが直面する死、ターミナルケアの現状に直面して、世界で群を抜いている日本の福祉に興味を持ちました。そこで研究を進めるに当たって日本語の資料を読めるようにと、日本語の勉強も始めたんです。日本に行きたかったので、大学院に通いながらバイトしてお金を貯めて、24歳の時に初めて日本に来ました。青春18きっぷを使って3ヵ月間日本中を旅したのですが、その旅で日本語が向上しました。そして、帰国後にちょうどトヨタとプジョーの生産拠点が立ち上げられていて、日本人、フランス人、チェコ人スタッフの間に入って、日本語と英語、チェコ語を駆使して通訳として働くことができました。そこでさらに日本語が磨かれましたね。

2005年に再度来日されていますが、それはどういう目的でいらしたのですか?

まだチェコの大学院に在学中でしたが、どうしても日本に留学したく、1年半の予定で妻と一緒に来日しました。でもそのまま滞在することになり、気が付けばもうそれから14年になります。

来るべくして来られたんですね。上越地方へ初めて来た時はどんな印象を受けましたか?

海に憧れていたので、それだけでもう感激でした。海にも山にも囲まれている最高の環境で、人がとにかく温かくて一瞬にして気に入りましたね。母国では、独裁政権の真っ只中の温かみのない環境で育っていますし、都会の大学院で研究していて人に触れる機会も少なかったので、上越の人の温かさにはとても感動しました。研究に関しては、特別老人ホームでの人間関係の繋がりを研究するところから始めたのですが、都会の方と比べて調査にもとても協力的でした。

仏壇に向かって、まるでなくなった人がそこにいるかのように話しかけるのを見て驚いたそうですね。

そうなんです。調査をさせて頂くのに、個人宅にも訪問させて頂いたのですが、お家の方が僕が差し上げたお土産を持ってお仏壇に直行し、お供えするんです。それだけでもびっくりしたのですが、そのまま仏壇の前に座って、「ねえねえ、じいちゃん、今、大学の人が調査でいらしてるよ。そんな難しい話私にできるかしらねぇ」と、まるで亡くなった方がそこにいるかのようにとても自然に話すんです。全く初めての経験だったので、本当にびっくりしましたね。

そういう慣習を知った後は、研究内容も変わりましたか?

基本的な方向性は変わっていません。でも、それまで行っていた人間関係の研究は、周りにいる生きた人との関係性についてだけでしたが、この時から私たちを支えているご先祖様との関係性や、亡くなった方たちと持ち続けているコミュニケーションについても研究するようになりました。

アジア国際社会福祉研究所の上席研究員として仏教ソーシャルワークの研究をされているそうですが、実際にどのような研究をされているのか教えてください。

特養老人ホームや病院などで調査をし、そこでの人間関係や、その国の社会的背景や文化的背景がどのようにソーシャルワークに影響しているのかを主に研究しています。カンボジアやスリランカなどのアジア諸国では、社会に急激な変化が起きている為、ソーシャルワークや福祉のニーズが高まってきていますが、そういった国の人々は、オーストラリアやアメリカなどで学んだソーシャルワークを自分達の国で実践しています。でも、全く違う文化、社会で培われてきた方法を当てはめようとしても当然うまくいきません。そこでアジアで成り立つソーシャルワークを創り出すことが必要だというところにたどり着いたのです。中でも仏教の概念が大きな影響を及ぼしていることに注目し、「仏教ソーシャルワーク」という新しい概念を立ち上げ取り組んでいます。カンボジア、インド、モンゴルなどでは、人々は困るとお寺に行きます。ソーシャルワークだけではなく、教育や医療など幅広い分野で、日常生活の中での大きな役割を果たしてきた仏教の教えを取り入れ、新しいアジア型のソーシャルワークを創り出していこうとしています。

左:カンボジアでのフィールド調査の様子。社会活動を行う寺院でインタビューを実施/右:国際会議で講演。ソーシャルワークについて。プノンペンにて、2016年

実際に仏教のどのような部分をソーシャルワークに取り入れているのですか?

地域社会の中で寺院や僧というのは、ある程度社会的役割が決まっていて、根付いているので、その地域に相応しいソーシャルワークを確立するのに必須であるという点に目を付けています。ロジスティックな部分はそこで、理念的にはお釈迦様、仏教の教えそのものを取り入れて、困ってる人がいれば手を差し伸べるという考えに加え、なぜその状況になったのかという、内面的な要因などへの対処も取り入れています。そして、「生きとし生けるものが平等である」という仏教の代表的な概念は、一番注目しているところです。動植物がいい状態でいなくては、人間もいい状態にはなりえない。みんな繋がっているんです。人間が優れていて、その下に動植物が置かれているという、一種のヒエラルキーは仏教には存在しません。平等なあり方がソーシャルワークの在り方にも繋がっているはずです。アジアに適し、根差した考えを取り入れなくてはならないんです。

どのようにしてそのような観点が生まれたのですか?

この研究のきっかけを作ってくれたのは、カナダのソーシャルワークの在り方です。カナダでは、ヨーロッパの移民達が占領する前からいた先住民、ファーストネーションに対して行われてきた差別などを反省し、教育制度やソーシャルワークなどのあり方をきちんと見直しました。占領される前に使われていた先住民のボディー・マインド・ソウル全てのバランスを整えるというホリスティックな観点を、西洋の“心は心、体は体”という観点に織り交ぜることで、現在使われているカナダのやり方が生まれたのですが、それと同じことをアジアでもやらなくてはいけないと思ったんです。

それでは、チェコの介護と日本の介護の違い、また介護に対する見方の違いを教えてください。

日本では、たとえ寝たきりになってコミュニケーションが取れない状態であっても、一人の人として、利用者、患者さんに対して接しているところがまず大きな違いです。亡くなってからもそうですよね。ヨーロッパも今は大分変ってきてはいるのですが、まだまだ追いついていません。患者さんや利用者の要望を全く聞かずに、マニュアル通りの対応をしているところが多いです。人を人として見ずに、大きな組織として動いている。寝たきりの人などコミュニケーションの取れない人に限っては、物同然の扱いをしている所も多いのが現状です。私が以前社会奉仕活動として働いていた所もそうでしたが、霊安室はなく、亡くなったら誰に声をかけることもなく、地下の倉庫に汚れた洗濯物と一緒に物の様に置くんです。

そういう現場を目撃したからこそ、今のヨゼフさんがあるのでしょうね。ヨゼフさんが考える、理想の終末期の在り方とはどのようなものですか?

その人が望む終末期は人それぞれ違うと思います。例えば私にとっての理想の終末期は、住み慣れた場所に最後まで残ることです。施設や病院などに入るとどうしても自由が奪われてしまうので、最後まで自分の家で過ごしたいです。でもそれが全ての人にとって最適であるとは思いません。逆に病院に入ることで安心する人もいます。だからこそ、理想の終末期とは「その人個人にとっての終末期」であると思います。ですから大きな課題として、各家庭でそれぞれの理想の終末期の話をし、家族や友人らと共有しなければならないと思います。

理想の終末期について話しておくことが重要だと思うのはなぜですか?

「死」の話はなかなか話す機会を見つけるのは難しいですが、死を意識することによって、永遠のテーマである「どう生きるか」を見つめることができます。死があるからこそ生きる意味が解るのです。話すことによって、周りの人との関係性を築き、関係性の整理も付けることができます。とは言え、死がテーマの話なのできっかけを見つけるのは難しいと思いますが、是非皆さんにやって欲しいです。それによって、家族の中で気付きが起こり、真のテーマが見えていくと思います。色々なことを共有し、アイデアが生まれ、それまでに持っていた考えが変わると思いますよ。

生きているうちに周りの人との関係性を築くことができ、また、自分の人生の目的に気付くことができる大切なプロセスなんですね。それでは、ここからはチェコについてお聞きします。まずチェコ人の国民性を教えてください。

チェコはビールの消費量が世界一と言われているほど、大好きでよく飲むのですが、飲みながらぶつぶつ愚痴を言うのが好きですね。そして楽しく大騒ぎすることもなく、クールに装います。あとは、何でも自分でやることに拘ります。何かが壊れたときに業者を呼ぶことはプライドが許さないので、絶対に自分でやろうとするんです。誰かの指示に従いたくないという意識も高いです。例えば、イケアの家具を買ってくると組み建て方法の説明書が付いていますよね。チェコ人はあれを読まないんですよ(笑)。自分でどうやるのか考えて、3時間ほど苦戦して、できなかった時にやっと読むんです。40年に渡る独裁政権で自由を奪われていたことが大きく関係しているんでしょうね。

歴史は私たちに大きな影響を及ぼしてきたんですね(笑)。ところで、ヨゼフさんがチェコ語で好きな言葉はなんですか?

「旅」とか「巡礼」という意味のポウティ(Pouť)という言葉が好きです。昔、遠い教会まで巡礼者が歩いた道で、年に一度、子供向けのアトラクションやお店などが出されたお祭りが開催されます。チェコ中の子供たちは毎年楽しみにしているのですが、それが今では「ポウティ」と呼ばれていて、発音も優しく綺麗だし、ワクワクするお祭りという意味と、人生の旅、巡礼という意味がかけ合わさっているところがすごく好きです。

ヨゼフさんが日本に住みながらも大事にしているチェコの文化、習慣はありますか?

サンタクロースではなく、イエジシェック(Ježíšek)という子供の姿のキリストがプレゼントを持ってくるクリスマスです。あと、柳の若い枝で編んだ鞭のようなもので、女性のおしりを軽く叩くと、イースターエッグを貰えるイースター、そして4月30日に行われる、「冬=死」のシンボルである魔女の大きな人形を使って歌を歌いながら焼いて春を迎える魔女焼きなど、チェコ独特の文化や行事を大切に子供に受け継いでいます。

本当に文化を大切にされているんですね。では、チェコに行ったら是非皆さんに行って欲しい、ヨゼフさんが大好きな場所を教えてください。

リトミシュル(Litomyšl)という街があるのですが、タイムスリップしたかと思うほど、中世の街並みが今でもそのまま残っている美しい街です。世界遺産に登録されたリトミシュル城があり、バロック様式のこじんまりとした街並みが広がっていて、モルダウを作曲したスメタナの出身地としても有名な所です。

日本で好きな場所はどこですか?

やっぱり上越ですね。関東で働いているのに、引っ越さずに今でも上越から通っているくらいですから。日本に残りたいという思いはあまりないのですが、上越には残りたいと強く思います。上越の人の温かさと、海と山に囲まれた自然、美味しい食べ物全てが大好きです。地元の人は何もないと言いますが、私から見たら全てが揃ってるんです。

上越の家の近くで、子供達と脱穀をした時の様子。2019年

日本語で好きな言葉はなんですか?

日本独特の擬音語、オノマトペが好きで、中でも特に好きなのは、ハグするときの「ギューッ」です(笑)。「ブツブツ」とか「パサパサ」「サラサラ」など音を言葉にして表現するのは、他の言語にはあまりないですよね。普通の言葉は、日本語のわからない外国人が聞いて理解できなくても、こういったオノマトペはある程度わかると思うんです。

では、日本で変化が必要だと思うのはどんなところですか?

日本のサービス、おもてなしの精神はすごいですよね。ただ、都会では全てマニュアル通りの対応で、心がこもっていないのが残念に思います。仕事でカナダによく行くのですが、カナダでは、店員とお客との間に、一対一の関係性が作られます。全ての人に同じ対応をするのではなく、どのお客さんにも一個人として、心を込めて会話をし、対応をするんですよね。上越でもそうです。それがあるだけで、心が温かく嬉しい気分になります。今日本では、外国人を受け入れていく にあたって、日本と外国の文化の違いを考える機会が増えていますが、同じ日本の中でも地域や世代などによっても文化が全く違います。これから国内での違いや対応性を見つめていくことができれば、外国人との理想的な関わり方も解っていくのではないかと思います。

それでは最後に、ヨゼフさんにとって成功とはなんですか?

難しい質問ですが、人生の中で「幸せだな」と実感している瞬間こそが自分にとっての成功なのではないかと思います。人の目に見える成功ではなく、どんなにちっぽけな事でも、「今うまくいったな」とか、「嬉しいな」「幸せだな」という感情が生まれてきた時こそが成功だと思います。

郷堀 ヨゼフ(Josef GOHORI) official info