グエナエル・ニコラ
ニコラさんはフランスのご出身ですが、どのような町で育ったのですか?
私はフランスのブルターニュにある、海の近くの小さな町で育ちました。フランス語で「Finistère(地球の果て)」と呼ばれているような何もないところです。ブルターニュの人たちは冒険家で、世界に出ていく人が多いんですよ。
ご両親はどんな方で、どのような教育方針でしたか?
私の父は自分の工場を経営する傍ら、世界から輸入した木で森を作ったり、動物の遺伝子を輸入していろいろな実験をしたりしていました。母は自分のアートスクールを持ち、そこで町の子どもたちに絵や人生の哲学などを教えていました。両親が教育で大事にしていたのは、「子供たちに自分で考えさせる」こと。全てをオープンにして経験させて、何が良いのか、何が悪いのかを自分で判断する大切さを教えてくれました。
ニコラさんはご兄弟がたくさんいらっしゃるそうで、映画ディレクターと建築家のお兄さんからは特に大きな影響を受けたそうですね。
4人の兄と2人の姉がいて、僕は1番下の末っ子です。1番上の建築家の兄とは、25 歳も離れています。兄が住んでいた家には、ケース入りの桂離宮の本や、ウイスキーの木の箱が綺麗に並べられていたのを覚えています。私がプレゼンテーションする際に必ず箱を作るのは、そのときの影響からきているようです(笑)。映像ディレクターの兄は、僕が中学生くらいの頃から、CGを使って実験的な映像を作ったりしていました。そんな兄たちを見て、車でも家でもグラフィックでも、全てゼロから作りだすことができると知って、僕もインテリジェンスやテクノロジーを使った新しいものを作れないかと思うようになりました。
中学、高校の頃は、どういう学生だったのですか?
14歳からウィンドサーフィンをやっていました。ある時ウィンドサーフボードは自分で作れることを友達から教わり、家のキッチンの裏に自分のアトリエを作って、サーフボードを作るようになりました。週末はボード作りですごく忙しかったです。ロゴやナンバーも入れて完璧に仕上げて、そのうちに自分のブランドも作ってやっていたら、オーダーがたくさん来るようになり、全部で60くらいのボードを作りました。
高校生の頃からすごい才能を発揮していたんですね。卒業後は、パリのアートスクール(ECOLE SUPERIEURE D’ARTSGRAPHIQUES ET D’ARCHITECTURE INTERIEURE)のインテリアデザイン科に進学されたんですよね。
すごい厳しい学校で、入学した最初の月から64色のカラーグラディエーションの表を作らされたりと、本当に大変だったのを覚えています。厳しかったので学校をやめる生徒は多かったですけど、その中で残った生徒たちは皆器用で、何でも上手に作れる人たちばかり。僕も、もの作りに関しては自信があったので、飛行機の模型を先生より上手く作ったこともありました。
そしてその後、ロンドンのRCA(Royal College of Art)に?
いえ、フランスは徴兵制度があるので、卒業後、22歳でアーミーに1年入隊しました。そこでは昼に秘書の仕事をして、夜にデザイン事務所でCG制作のアルバイトをしていました。その後、ロンドンのRCAに2年間通ったんです。
学校が多くある中、RCAを選んだのはなぜですか?また、そこで学んだ大事なことを教えてください。
RCAは一番エネルギーがある学校だし、建築、インテリアデザイン、グラフィック、ファッションなど、いろんなカテゴリーがあるから良いなと思って。この学校に入って学んだことは、アジア人でもアメリカ人でも、クリエィテヴィティに人種は関係ないこと、世界は広いということ。生徒同士がお互いの経験をシェアして、みんなでコラボレーションできたのも良かったです。あとは、プレゼンテーションの大切さも学びました。
卒業後の1991年、25歳で日本にいらっしゃったそうですが、ヨーロッパでキャリアを築こうとは思わなかったのですか?
ヨーロッパ中のいろいろなデザイン事務所をリサーチしましたが、デザイン重視なところが多く、あまり面白くないと感じていました。それに比べて東京はどこの都市よりも最先端を行っていると思ったし、東京のデザイナー達の考え方も未来的だと思っていました。そんなとき、イギリスの雑誌に載っていた坂井直樹さんの写真と言葉を見て、「この人に会わなきゃ!」って思って。
最初はただ坂井さんに会いたいという理由だけで、何の仕事のあてもなく東京に来たのですか?
はい、東京に来て、初日は何も考えずにホテルニューオータニに泊まり、持ち金の半分を使ってしまいました(笑)。部屋の窓を開けたら東京の景色で、「何で僕はここにいるんだ?」って怖くなったのを覚えてます。それで、僕の兄さんの日本人の友達のデザイナーに会いに行ったら、その人の家に泊まらせてもらえることになり、結局そこに半年間住みました。それから仕事を探して、名刺のデザインからクレジットカードのデザインまでと、いろいろなバイトをしました。
その後、坂井さんにはどうやってアプローチを?
日本に来る前から手紙やポートフォリオを何回も送っていましたが、返事をもらえたことはなかった。だから、今度は何かプレゼントを贈ってみようと思いました。アルミボックスでカッコいいパッケージを作って、その中に木の種を入れて、「Accept those seeds as a token of my work.(この種を僕の作品のしるしとして受け取ってください)」というメッセージと花を添えて送ったんです。そうしたら次の日に、坂井さんが僕に会いたいと言っていると、秘書の方から電話が来ました。日本に来てから3ヶ月後くらいのことです。僕のアイデアが他と違って面白いと思ってくれたようでした。
坂井さんとはどんなお話をされたのですか?
僕にはすでにいろいろなアイデアがあったので、やりたいことを坂井さんに説明したら気に入ってくれました。そしてその後、坂井さんからもらった初めての仕事は仏壇のデザインでした。当時僕は仏壇のことを全く知らなかったので、2 ヶ月間悩み続けた結果、自分の中でデザインのルールを決めて作ることにしました。
東京デザインセンターで行われた「MIND GEAR EXHIBITION のためにデザインした仏壇 "THE BOX OF TIME"[時の箱]」。93年作
どのようなルールを?
それは、形としてのデザインだけではなく、時間もデザインすること。最初にものを見てから実際に使うまでに時間の経過がありますが、その時間の経過もデザインするということです。例えば、初見ではモダンで美しくシンボリックなものと感じても、それが何なのかは分からないことがある。それが好奇心を生んで、触ってみて「面白いね、美しいね」と感じ、最後に「なるほど、そういうことね」と機能性を知って安心する。そのように、デザインが美しかったり面白かったりするのは当たり前なことで、見た人に記憶と好奇心を使って考えてもらって初めてデザインが完成したと言えるのではないかと思ったんです。結果、仏壇は良いものに仕上がったと思います。
もう一人、ニコラさんがずっと会いたいと思っていた方にイッセイ ミヤケさんがいたそうですが、イッセイさんにはどのようにして会うことができたのですか?
もともと、3ヵ月間ほど毎日、青山にあるイッセイさんのお店に勉強のために通っていたので、お店の人とは仲良くなっていましたが、それ以外でもいろいろな人に会って、リサーチをして、イッセイさんの会社の人に僕のポートフォリオを渡すことができました。ポートフォリオの最初のページには仏壇の作品を入れていて、イッセイさんはそれを見て面白いと思ってくれたようで、翌日、イッセイさんに会うことができたんです。そのときのミーティングで、インテリアデザインに興味があるかと聞かれて、あると答えたら、「パリのお店を作りませんか?」と。でもパリは嫌だったので最初は無理だと断ったのですが、やっぱりチャンスを逃すわけにはいかないですよね(笑)。
ニコラさんの行動力には頭が下がりますが、運もとてもお強いですね。インテリアデザインを手がけたことはそれまでにもあったのですか?
学校で勉強したことはありましたけど、仕事としてはなかったです。そのお店のデザインはもともと倉俣史朗さん(*)がやられていたので、その後を僕が引き継ぐなんて気が重かったです。
*日本のインテリアデザイナー。空間デザイン、家具デザインの分野で60年代初めから90年代にかけて世界的に活躍したデザイナー
ニコラさんがインテリアデザインを手がけたパリのイッセイ ミヤケ
それまでインテリアデザインの経験がなかったニコラさんに、イッセイさんはなぜチャンスを与えたのだと思いますか?
なぜでしょう。日本人のデザイナーでも難しい仏壇を外国人がデザインしたとは、どういう考え方や哲学を持ったデザイナーなのだろう?と思ったのかもしれないですね。イッセイさんは、その仏壇の作品以外を見ることはしませんでした。その人が過去にどんなものを作ってきたかではなく、その人の伝えたいことは何か、どんなアイデアや考え方を持っているかの方が大事ということでしょうね。
ニコラさんはクライアントに対して多くのプレゼンをされてきていますが、今までうまくいかなかったことってありましたか?
もちろんたくさんありましたよ。うまくいかない理由には2つあると思っていて、一つはクライアントが変化を恐れたとき。まだ存在しない未来に行き着くために、クライアントも僕と一緒にチャレンジをして変化しないといけないけれど、変化を恐れる人は多いですね。確かに変化はエネルギーのいることだし、成功するかどうかはやってみないとわからないけど、うまくいけば新しいスタンダートを築けるのですから、チャレンジする価値はあると思います。もう一つの理由は、アイデアがクリアーでないとき。何かをプレゼンするときに、その内容を5秒から15秒で説明できなければ良くないですね。CMと同じです。それは昔、僕がイッセイさんに言われたことでもあります。
98年にキュリオシティを設立されましたが、フリーのデザイナーではなく、会社にしてやっていこうと思ったのはなぜですか?
やはり大きなことをするにはパワーが必要ですし、個人でできることにはリミットがあるからです。それに私はアイデアを考えることに専念したいので。
キュリオシティのモットーはなんですか?
キュリオシティはデザイン事務所ではなく、アトリエという位置付けで、クライアントと対等の立場で、やりたいことを一緒にディスカッションします。それを通して私がデザインのアイデアを生みだし、そのアイデアやビジョンを固めて、チーム内で分担作業に入ります。あと、社内ではデザインのブレイン・ストーミングはやりません。ピンタレストを見るのも禁止にしています。
インテリア、建築、プロダクトと、多くのデザインを手がけてこられていますが、今までの作品の中で特に印象に残っているものは?
この事務所ですね。以前は半分住居にしていたので、子どもたちはゴミ箱に入って、建物のスロープを滑り台代わりにして楽しんで遊んでましたよ。ちなみに事務所のデザインはこの土地を決める前から決めていたんです。普通は順番が逆だと思いますが、私の場合はまず「こういう働き方をしたい」というビジョンから始まったので。
キュリオシティ事務所外観(写真左)、建物の側面にあるスロープ(写真右)
受注した仕事の中ではどうでしょう?
坂井さんから一番初めにもらった仏壇の仕事です。その仕事がイッセイさんとの仕事に結びついたということからも、成功したと言っていいですよね。でも、受ける仕事はどんな仕事でも嬉しいです。やったことのないことに挑戦するときは心配なこともありますけど、嬉しいです。
ターニングポイントになった仕事は?
私は全部のプロジェクトにベストを尽くしているから、どの仕事もターニングポイントで、どれも成功したと思っています。トップの人たちと同じレベルで仕事できるようになるまでは大変でしたけど、会いたい人に会えて、仕事をもらえて、その仕事を成功することができて、幸せですよね。
会いたい人に会えたときに、何をすべきかアドバイスはありますか?
相手の好きそうなものに合わせて、本当に自分が良いと思うものや、やりたいと思っていることを妥協しないことですね。そして、自分が相手を必要とするより、相手に必要とされること。自分は相手より下などと思うのではなく、同じレベルに立ち、自分の価値を相手に与えることです。
ちなみにニコラさんはアイデアやインスピレーションは、どうやって思いつくのですか?
いつも自分をオープンにして、何でも感じるようにしています。プロダクトデザインは、自分の経験を通して考え、デザインに落とし込みます。インテリアデザインは、風水を元にエネルギーの動きを考えます。私は毎朝コーヒーを飲みながら、本や雑誌を読むのですが、本を上下逆さまにして見たり、違うものに焦点を当てて本を見るようにするんです。実際の本をそのまま見るより、印象的なものとしてインプットされて面白いし、いろいろなアイデアを得ることができます。
デザインする上で気をつけていることはありますか?
例えばレストランのデザインをするときは、すでに存在する他のレストランのデザインを見ないようにしています。それが椅子でもホテルでも同じ。見なくても勉強を重ねていれば今のトレンドは分かっているから、それを元に考えればいい。そうやって自分の頭で考えるのと、他のデザインを見てアイデアを簡単に得ようとするのは違います。
今年の4月にオープンしたGINZA SIXのインテリアデザインを手がけられましたが、訪れた人々からはどのような反響を得ていますか?
良い反響をもらっています。外国人のお客さんにはすごく未来的なものに、日本人のお客さんにはエレガントで和の要素があるデザインとして映るようで、見る人によって捉え方が違うのが面白いですね。
GINZA SIX
特にこだわった点などは?
このプロジェクトでは、5万平米という大きなスペースで一つの雰囲気、一つのアイデンティティーを作り上げることに重点を置きました。光、素材、いろいろな要素をうまくコントロールしたことで、イメージした通りほぼ完璧に仕上がったと思います。それと、東京に住む東京の人たちのために、日本のエッセンスを取り入れることも意識しました。東京の人たちに楽しんでもらえれば、外国の人たちにも行ってみたいと思ってもらえるかと思ってね。
2階から5階まで吹き抜けのアトリウムは、天井から光が入って、開放感を感じますね。
螺旋状のデザインは風水を元に、人の流れ、気を回すことを元に考えました。実は最初の設計図には、エスカレーターが逆の向きに書かれていたんです。その向きを全て変える必要があることを伝えたら、特に外国人のクライアントには「風水のために変えないといけないとはどういうことだ?」と、なかなか理解してもらえなかったです。
向きが違うだけで、人の流れはそんなに変わるものなのですか?
大きく変わります。人は心臓が左にあるので、意識しなくても左の方向に行く方が楽なんです。例えば貝などの自然物も左から右へ回りながら中心に向かって作られていますよね。カッコいいからというような理由だけでデザインしても、期待するように人は流れてくれませんし、GINZA SIXのような大きな商業施設では、人の流れがどうなるかで売上が何億と変わってしまいます。
いつ頃から風水を元にデザインを考えるようになったのですか?
イッセイさんのパリのお店のデザインをしたとき、風水を学ぶきっかけになった出来事がありました。そのお店には窓が3つあるのですが、私がデザインする前は、一つの窓の後ろに壁があったんです。その壁は倉俣さんが作ったものでしたが、私は新しいデザインに変えるために、それを取り払いました。そうしたらそれ以降、その窓の前にあるハンガーが落ちるようになったり、窓の後ろにあるディスプレイが壊れるようになった。イッセイさんに伝えたところ、その壁があった周りのエネルギーが強すぎるため、壁にエネルギーをヒットさせて気を循環させていたことがわかりました。それから風水を勉強するようになったんです。
現在は他にどんなプロジェクトを手がけているのですか?
香港と日本にできる新しいホテルと、ロンドンとマイアミのドルチェ&ガッバーナ、ドバイのモンクレールのお店も手がけています。ほかにも、常に30くらいのプロジェクトが同時進行で動いていて、500平米の小さなものから5万平米規模の大きなものまであります。プロジェクトが完成するまでの期間は、ホテルだと3年くらい、ファッションの店舗だと1年くらいですね。
日本語と母国語で好きな言葉を教えてください。
日本語は「手ばかり」。フランス語で好きな言葉はないです。英語は、「The cure for boredom is curiosity. There is no cure for curiosity(退屈の薬は好奇心。好奇心を治す薬はない)」という有名な言葉です。みんながもっと好奇心を持てば退屈にならないだろうから、いろんなものを見てインスパイアされたら良いなと思います。
日本や日本人の変わったら良いと思う点を教えてください。
街に進化がなくなってきているように感じるし、ものでも、電気車やデジタルカメラなど、技術は進歩していても見た目が変わらないのはもったいないと思います。日本人は自信が足りないように思うので、もうちょっと自信を持った方がいいと思います。
外国人が日本で何かを成し遂げるために、やった方が良いことや、気をつけた方がいいことは何ですか?
日本に来たら、日本の慣習に合わせること。「フランスはこうだったから」というのは日本では通用しないので、全部を感謝して楽しむことです。
反対にフランスに住みたい、フランスで仕事をしたいと思っている日本人はどういう心構えが必要だと思いますか?
先ほどど同じで、人や考え方の違いをジャッジせず、全てを楽しむことですね。
日本の社会に対して、変化が必要だと思う点を教えてください。
全部です。全部変えられたら、楽しくなると思います。フランスで何かのものを変えるときは、まず既存のものを壊してからでないと新しいことはできないんです。でも日本では、前のものも残したまま、その上に新しいものを積み重ねることができる。古いものも残せるのだから全部変えてもいいんじゃないかと思います。
まだ住んだことのない国で、住んでみたいと思うところはありますか?
アメリカのサンフランシスコやニューヨーク、デンマークのコペンハーゲンなどですね。国というより、その都市にエネルギーがあるかどうかが大事です。でもやっぱり東京はいいですよ。すごくエネルギーあるし、何でもありますから。
ニコラさんが思う日本の未来、世界の未来を教えてください。
今の時代は、アイデア次第でいくらでも成功できる可能性があるから、すごい時代だと思います。子どもたちはビジョンもエネルギーもあって、賢くてポジティブだから未来を心配することはないと思いますが、私たち大人が彼らに可能性を示していかないといけないですね。
それでは最後に、ニコラさんにとって成功とは何ですか?
自由な状態です。自由に自分のアイデアを持って、みんなにシェアしてビジョンを広げていく。自由があれば、次は何をしようかって考えるチャンスができる。そのチャンスがあるときに、パワーを使って次のステップに進むべきだと思います。成功は人生の次のステップに進むためのスターティングポイントでもあるから、できるだけ自由に発想し動ける状態でいたいと思っています。