BICULTURAL SOULS
#10 | Oct 24, 2017

サッカー・トルシエ・ジャパンの通訳、WOWOWテニスのスポーツキャスターなどで活躍。今後は著名な父親にならい作家の活動も

Interview: Mayuko. K / Photo: Atsuko Tanaka

様々な分野で活躍する日本在住の外国人の方々をインタビューし、日本と祖国の文化の違いなどをお話し頂くコーナー“Bicultural Souls”。第10回目のゲストは、フランス出身のスポーツジャーナリスト、フローラン・ダバディさん。学生時代は、脚本家の父の影響からか、人一倍言葉に敏感な語学の達人だったという。あえて難しい言語にチャレンジしたいとの思いからパリで日本語を身につけ、1998年に来日。サッカー日本代表のトルシエ監督の通訳として一躍日本で有名になり、その後はWOWOWテニス中継のナビゲーターとして活躍してきた。「“運”と“縁”に恵まれ、日本での仕事がつながってきた」と語るダバディさん。その裏でのひたむきな努力と葛藤、そして、セカンドステージへの意気込みを伺った。
PROFILE

スポーツジャーナリスト フローラン・ダバディ/ Florent Dabadie

フローラン・ダバディ(Florent Dabadie)、 1974年フランス生まれ。1993年6月、St Croix de Neuilly 高等学校卒業後、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)へ短期留学し、94年9月、パリのINALCO (国立東洋言語文化学院)日本語学科に入学。卒業時には学位を取得。1998年、映画雑誌『PREMIERE』の編集者として来日後、サッカー日本代表のトルシエ監督の通訳およびパーソナル・アシスタントを務める。2004年よりWOWOWテニス中継のナビゲーターに就任。そのほかフジテレビ『すぽると!』編集部(2004〜)にも在籍しスポーツコメンテーター・制作者としても活躍。新聞、雑誌等に寄稿するジャーナリストでもある。

フローラン・ダバディ

ダバディさんは1974年生まれの生粋のパリっ子ですね? 当時の思い出はどのようなものですか?

生まれは14区ですが、育ったのは16区です。14区は、昔から芸術家が住みついた街。一方、16区はブルジョワが住む高級住宅街です。父は映画界で成功していたので、幼少期はどちらかというと恵まれた環境で育ちました。70年代後半は好景気に沸いていたフランスでしたが、81年にミッテラン大統領が当選し、社会主義的な政策が始まると、国の雰囲気は一変します。両親も離婚し、父の黄金時代にも急に終止符が打たれました。ぼんやりと、「将来、フランスを出たい」というイメージが生まれたのは、その頃ですね。

左:フレンチアルプスでスキーをしている3歳のダバディ氏
右:家族とバスク・ペロタ(素手、またはラケットなどを用いて壁に向かってボールを打つスポーツ)を楽しむ(ダバディ氏は右から3番目)。1979年頃

お父さまはフランソワ・トリュフォー監督(※1)の『私のように美しい娘』などを手がけられた有名な脚本家です。どのような方ですか?

文学や詩などを愛する、言葉の達人です。少年の頃からとても優秀だったようで、15、16歳の頃にはすでにギリシア語やラテン語が堪能だったと聞いています。ごくごく一般的な家庭に生まれ、才能と努力で自らの地位を築いた、いわゆる“セルフ・メイド・マン”です。すでに高齢ですが、今でもとても元気で、若い頃に覚えたというモリエール(※2)ラシーヌ(※3)の作品をそらで言うことができます。彼の作品はとてもウィットに富んでいて、日本の作家で例えるなら、夏目漱石に近い作風を持っているかもしれません。
※1:1950年代後半から活躍したフランス・ヌーヴェルヴァーグを代表する有名監督
※2、※3:ともに17世紀のフランス古典主義を代表する劇作家

お母さまはどんな方なのですか?

母は移民であり庶民出身でありながら、父親は貴族という、ある種、ドラマティックな生い立ちを持つ女性です。母方の祖母は103歳で健在ですが、1915年(※1)にフランスに避難した、アルメニア移民なんですね。移住後、フランスで、家庭を持つ貴族階級の男性と恋に落ちた。そして母が生まれます。フランスは日本の皆さんが思っている以上に、いまだ階級的な社交界が存在しますから、母はそういう意味でいろいろと苦労したようです。基本的に彼女は自由人。正義感も強くロビンフッドの女性版のような人です(笑)。母は特にアカデミックな教育を受けたわけではありませんが、30歳くらいから読書に熱中して、今ではゴンクール賞(※2)の事務局長をしています。
※1:オスマン・トルコ帝国によるアルメニア人迫害が起こった
※2:フランスで最も権威ある文学賞のひとつ

母に抱かれる赤ちゃんのころのダバディ氏

おふたりからはどのような影響を受けたんですか?

両親とも、感受性が極めて高い人間です。言葉の品格、振る舞いの品格、人の心の気高さなどに敏感でした。僕もそういう繊細な部分を受け継いでいます。特に言葉については敏感です。よく考えて正しい言葉を探そうとします。そして美しいものが好きです。ビジュアル的に、というだけではなく、人の偽らない心とか、思いやりの心とか、正義とか、目に見えないものにも心を動かされる気質です。

文化的な環境に育ったダバディさんですが、家族でよくスポーツ観戦も楽しんでらしたとか。

こちらも両親と兄の影響です。特にサッカーの試合は家族でよく観戦していました。86年のメキシコ大会(ワールドカップ)のマラドーナ選手の活躍は、今でも鮮明に覚えています。テニス観戦の最初の記憶は80年のウィンブルドン決勝。ボルグ選手が5連覇を達成した年です。当時の好敵手マッケンローとの対決はまさに死闘でした。僕自身、サッカーもテニスも6歳の頃からプレイしていましたし、今でもテニスは続けています。

中学、高校時代は、どんな生徒でしたか?

得意だったのは、語学です。父親からの遺伝かもしれません。英語、スペイン語、ラテン語と次々と習得していきました。でも、真面目な優等生タイプではなく、どちらかというと、アウトサイダーでした。日本で言うなら学習院のようなきちんとした学校に通っていたんですが…まわりの友だちとはあまり気が合いませんでした。ひとりでパリの中華街をブラブラするのが好きな、ちょっと変わった子だったんです。

高校生の頃。1991年

日本に興味を持ちだしたのもその頃ですか?

いや、特に東洋的なものに興味があったわけではないですね。来日した理由をよく聞かれるんですが、実は、日本の文化というより日本語に惹かれたんです。欧米の言語とはまったく文法の異なる、難解な言葉にチャレンジしてみたかった。そこで、パリにあるINALCO (Institut National des Langues et Civilisation Orientales=国立東洋言語文化学院)で日本語を学ぶことになりました。94年の秋に入学しました。

それまでに日本に来られたことはありましたか?

初来日は94年の夏です。INALCO入学前、東京と北海道でホームステイを経験しました。東京の印象? そうですね……当たり前のことなんですが、日本人しかいない(笑)。それもみんな、プログラムがインストールされているかのように礼儀正しい。街もピカピカ光って見える。なんだか世界とかけ離れた場所、違う惑星に来たように感じました。文科省の奨学金を得て、静岡大学へ短期留学(96年)していたこともあります。テニス部に所属していたのですが、体育会系の団体行動はとても苦手でしたね。

本格的に日本で活動されるようになったきっかけは?

98年にフランスで行われたワールドカップ開催中に、『日刊スポーツ』が、通訳だけではなく現地情報も集められる人を探していたんです。僕はまだINALCOの学生でしたが、友人経由でアルバイトの仕事を引き受けることになりました。同じ頃、僕は自ら日本で創刊されるフランスの映画雑誌『PREMIERE(プレミア日本版)』のインターンシップに応募していました。日本語を学んでみると、成績もぐんぐん上がるし面白くなってきて、国外に出たいという思いがいよいよ現実味を帯びてきたんですね。日刊スポーツでのアルバイトを終えて、日本の出版社(ハースト婦人画報社)の仕事が決まったのが、たった数カ月後の出来事でした。

98年はダバディさんにとってターニングポイントの年になりました。

そうです。W杯が終わり、日本の出版社の仕事が決まって来日したかと思ったら、今度は日本サッカー協会(JFA)から声がかかりました。就任したばかりのトルシエ監督の通訳を探していたらしいんですが、なかなか見つからなくて、回り回って僕のもとに巡ってきたんです。その年の12月に初めてトルシエ監督にお目にかかりました。実のところ、本業も決まったばかりだったので、「会うだけなら」という軽い気持ちで出向いたんです。引き受けると決めていたわけじゃなかった。

ところが、トルシエ監督に気に入られてしまった?

トライアルを受けることになって、僕はただただ、トルシエ監督の発言を忠実に、素直に訳して。協会のお偉いさん方は僕の日本語がまだ不十分だったので不安そうではありましたが、トルシエ監督が押してくれたんです。

左→右:トルシエ監督、ハリルホジッチ監督、ダバディ氏

そこから『PREMIERE』の編集者とトルシエ監督の通訳という、二足のわらじ生活が始まりましたね。

通訳の仕事に少し身が入らなくなると編集の仕事に熱中し、会社員の仕事が退屈に感じるとサッカーの海外遠征に帯同して (笑)。ちょうど僕にとってはいいバランスだったんです。出版社の当時の社長はフランス人で、そんな私を許容してくれたことも幸いしていました。楽しかったですね。そんな生活が4年間続きました。

通訳をされるダバディさんは、トルシエ監督が乗り移っていたかのようでした。

確かに、役に入って演じているようなところもありました。彼の本心を熱意も含めて伝えたかった。ただ、彼は時折、勢いあまって乱暴な言葉を発する人でしたから、そこは、私なりのこだわりを持って対処していました。選手を頭ごなしに罵倒するのではなく、モチベーションを取り戻しやすいよう、あえて遠回しな言葉を選ぶ。通訳は、そういう調整役として機能しなければならないと、仕事をするうちに実感していったからです。自分の感性を通じて訳したい。経験を重ねるにつれ、直訳はしたくないと思っていました。

2003年からはフジテレビの番組で海外サッカーの解説を始められています。その翌年には、WOWOWのテニス中継番組から出演のオファ―があり、スポーツキャスターとしての活動が本格化しましたね。 

通訳の仕事を終えて半年後くらいに、日本テニス協会の強化本部長である福井烈さんから、ある雑誌の対談ゲストに呼ばれたんです。僕がサッカーだけではなく、テニスファンでもあることをご存知だったみたいです。その記事を、偶然、WOWOWのプロデューサーが目にされた。まだ錦織選手が有名になる前です。それがきっかけとなり、WOWOWテニス中継でのメインキャスターとしてのキャリアが始まりました。同じ頃、フジテレビのスポーツ番組『すぽると!』での仕事も本格的にスタートを切りました。

ダバディさんは、いつも節目となるタイミングで縁を引き寄せていますね?

すごくラッキーだったと思います。でも、受け身の姿勢だけでは、ここまで仕事は続かなかったでしょうね。自分から企画を提案することは怠りませんでした。プレゼンしては通らず、落ち込むことや葛藤することも多かったです。

常に扉をノックし続ける積極性が必要だと?

維持するには、それなりの努力とアピールは大切なんです。仕事のルーティンに慣れてしまって、そこに安住するようになってしまっては、何も新しいものは生まれない。私はフジテレビの『すぽると!』というスポーツ番組で、コメンテーターを務めていた時期もありましたが、一度、契約が終了しそうになったことがあります。当時、僕は温めていたドキュメンタリー企画があったので、制作担当者のトップに必死に直談判しました。「僕のネットワークを使ってすべてセッティングするので、チャンスをください」と。OKをいただけるまで、かなり粘りました。

どんな内容でしたか?

NFL(ナショナル・フットボール・リーグ)のチーム『ニューオーリンズ・セインツ』の選手たちが主人公です。2005年、本拠地ニューオーリンズ(アメリカ・ルイジアナ州)のスタジアムがハリケーン・カトリーナによって、甚大な被害にあってしまいました。2009年、スタジアムの修復が完了し、ようやく故郷に帰還できた選手たちの素顔を追いました。翌2010年に、セインツは、球団創設43年目にしてスーバーボウル初勝利を収めます。彼らが勝ったことで、偶然にも栄光への復活劇をリアルに伝えることができたのです。好評を得ました。

スポーツキャスターとしてレポートする時に、何かこだわりはありましたか?

文化や歴史を感じてもらえるよう、気を配っていましたね。スポーツ中継では、いろいろな国を訪れましたが、その土地その土地の背景を盛り込むようなレポートを心掛けていました。おのずとライトサイドだけではなく、ダークサイドも伝えることになります。エクアドルのサッカーのドキュメンタリーを作った時には、数少ない先住民の選手にフォーカスして、リアルな声を拾い上げるようにしたり。選手個人のバックグラウンドだけでなく、サッカーで言えば、各クラブの背景、政治色なども併せて伝える。そういうことが大切だと感じていたんです。

取材で世界各国を訪れたとき。左上:フジテレビ「すぽると!WORLD QUEST」ゼニト・サンクト ペテルスブルク取材、右上:マルセイユ、左下:アメリカ独立記念館前、右下:「すぽると!WORLD QUEST」モスクワ取材。ディレクターとコーディネーターと一緒に

WOWOWでのテニス中継ではいかがでしたか?

実は、WOWOWテニスでのナビゲーターは2018年の全仏オープンで正式にキャリアを終える予定です。ちょうど14年目にあたります。私の中ではとても長いキャリアになりました。やるべきことはやれたと思っています。唯一の後悔は、ドーピング問題に揺れるテニス界の実情に鋭く切り込めなかったことですかね。今後もクリーンなテニス界を目指す闘いを続けたいと思っています。
参照記事:日本経済新聞の電子版に記事『なぜ現れぬ伊達2世? 再び女子テニスが輝くには』

これまでたくさんの名選手に出会われています。リスペクトしていた選手は?

サッカーでは、中田英寿選手です。パスの美しさが格別でした。テニスでは、先日、惜しまれつつ引退された伊達公子選手。トップ10入りしたファーストキャリアより、第二のテニス人生での戦いに心打たれました。潔く我が道を行くお二人の生きざまが好きで、彼らの人生をリスペクトしています。良い友達でもあります。海外では、サッカーならジダン選手、テニスならサンプラス選手という静かな孤高さを感じさせるスーパースターに惹かれます。彼らの謙虚さを尊敬します。何より僕はリーダーが好きで、サッカーならヴェンゲル監督、トルシエ監督、ハリルホジッチ監督、テニスならデビスカップのノア監督、植田元監督に多くの刺激を受けました。皆さん、大切な友人に近い存在です。選手、指導者問わず、既存のエスタブリッシュメントと戦うスポーツ人に感情移入してしまう方ですね。

これまでのキャスター生活を通して、得たものを教えてください。

選手や監督から、いつもエネルギーとパッションをもらっていました。本当に彼らは、24時間、休みなく“creation”(クリエイション)に燃え続けている。スポーツ選手はある種、アーティストに似ています。画家に例えるなら、彼らにとってピッチやコートはキャンバスです。ボールは筆のようなもの。そこでどうプレイするのか、イメージを描いていく。創造力とインテリジェンスをフルに生かして、自由に、初心のままに、子どものように技を磨いています。だから、すごく繊細でもある。常により上を目指そうとして、努力を続けている姿には本当に圧倒されます。監督も同じですね。一日中、クリエイションしています。エネルギーもすごい。彼らには、第2、第3のエンジンがあって、いつでも夜中までクリエイションし続けられるんです。止まるのは倒れる時だけ。危険信号を無視しすぎて、身体が悲鳴を上げるんです。そういう彼らをリスペクトしますし、僕自身、そんな尽きることないパッションを見つけて、クリエイションできればと思っています。

ダバディさんもすでにそういう方に見えますが……。

ここ10年間、人生において、一番全力疾走してきたかもしれません。次から次に企画を考えて、WOWOWをはじめ、いろいろな媒体に自分から仕事を取りに行きましたし、オファーされた仕事は、興味があるなしは別としてすべて引き受けました。朝から晩まで休みなく、本当によく働いた。フランス人なのに、1年に1週間程度しか休みをとらない年もあった(笑)。仕事に厳しい日本人の中でも、トップクラスのプロ意識を持つ人たちと一緒に働けたことで、勤勉さは日本人並に鍛えられました。それは、僕の大きな財産になっています。でも、ずーっと心のどこかに僕の居場所はここじゃないのでは? という思いも抱えていました。

2014年全豪オープン男子シングルズ決勝後、優勝したワウリンカ選手がWOWOWスタジオに生出演した時

それはどういう意味でしょう?

幻想かもしれませんが、自分の人生の一番のピークは、まだ来ていないんじゃないかと。まだ全然満足できてないんです。通訳やスポーツキャスターの仕事は恵まれた仕事だったけれど、本当に天職なんだろうか、という葛藤が続いている。スポーツは僕のインスピレーションの源であり情熱の対象であり続けることには変わりはないんですが、表現の仕方として別の方法もあるのかもしれないと。日本に来てから約20年。ずっとレギュラー仕事が途絶えなかったんですが、来年、初めて一区切りつくんです。だから余計、自分の心もリセットして、本当にやりたい事、やるべき事に向かう時期なのかもしれないという、心の声がする。

具体的に何かイメージはあるんでしょうか。

ふと脳裏をよぎるのは、父の背中かもしれません。父の書斎には、所狭しとあらゆる本が並んでいました。書斎で本に埋もれながら、父は一日中、言葉を探したり作ったりしていたんです。まさに言葉の職人でした。そういう父の背中を見てきたから、僕は本を愛する、言葉を愛する人間に育った。なのに、彼が僕に与えてくれたそのギフトを生かしきれていないような気がしてしまう。40代になって、ようやく、代々の家業を継ぎたいと我に返るような……。

例えば作家ということですか?

そうですね。小説を書き上げたいという気持ちはありますね。今まで、ジャーナリストとして記事は書いてきましたが、もっと本腰を入れて執筆に向かいたい。ただ、相当の覚悟で臨まないと難しいことはわかっています。「絶対、私のような人生は歩んじゃダメだよ」と言うのが父の口癖でしたから。それぐらい、創作の世界は過酷で容赦ないということです。その覚悟ができているかどうかはわかりません。でも、もし、自分に才能が与えられているのなら、その才能を生かさないと、自分の人生が無駄に終わってしまうようでこわいんです。

どんな作品になるんでしょう?

まだまだ暗中模索しています。でも、スポーツの世界でいろいろなドラマを見てきたので、自分のこれまでのキャリアを生かした内容になる可能性は高いですね。ドーピング問題にも高い関心がありますし。

では、これからまた、新たなダバディさんの活躍が期待できるわけですね?

そうなるといいですね。先日、夏のバカンスでベトナムに1週間ほど滞在したんですけど、休暇中のほうが意欲的にものを書いていました。日本に帰国してからは、目の前の仕事に追われているのが現実です。もっと自分を追い込んだほうがいいのかもしれません。ガラッと環境を変えて、すべての仕事も断って。危機感は抱いていないけど、毎朝、プレッシャーは感じます。この先の未来が楽しみでもあり、不安でもある。だから、僕はまだまだ成長過程なんです。

ここからは、皆さんにお伺いしている質問です。日本語と母国語で好きな言葉を教えてくださいますか?

フランス語は特に思いつかなかったんですけど、日本語では相槌が好きです。「そうですよね」とか、「なるほどぉ」とか。特に意味はないけれど、脳を休めているというか、小休止させているというか。フランス人は、曖昧な相槌は許してくれませんから。すかさず、「ちゃんと聞いてます?」ってつつかれる(笑)。

日本の良いところ、良くないところをひとつずつ教えて下さい。

良いところは、危機感を持たなくても暮らせるところ。治安という意味だけではなく、人としてのモラル的な意味においても。良くないところは、みんなに合わせなきゃいけないところ。僕は一匹狼タイプなので、ロジカルに反した“右へ倣え”的発想は苦手ですね。

まだ住んだことのない国で住んでみたいと思うところは?

アフリカの、あの独特な風土が好きです。初めて空港に降り立った瞬間の赤土の香りを今でも思い出します。ただ住めるかどうかとなると、身構えてしまうかも。現実的なところでは、ニューヨークかなぁ。常に誘惑を感じます。あとは、僕が昔、うろうろ徘徊していたパリの13区(中華街)。パリの中の異次元ワールドで面白いんです。180度発想を転換すれば、将来的には大西洋の小さな島にこもって執筆に励むのもいいかもしれません。母が別荘を持っていて、夏以外は誰も使わないんです。書くことだけで生活できるようなったら、その島で、これまでとは全く違う人生を始めるのはどうかな、なんて夢想したりもします。

最後に、ダバディさんにとって、成功とは何でしょう?

あくまで基準は自分の中にあります。人それぞれ基準は違うからどれが正解というものはないんでしょうが、僕が目指すのは、職人としての到達です。自分のクリエイティビティに正直でありたい。精魂こめてつくる作品に誇りを持ち、世間の評価に惑わされず、淡々と自分の世界を構築していきたいんです。そういう意味では、亡くなる瞬間までクリエイションを続けていたい。僕の寿命は神のみぞ知るですが、叶うなら、90歳まででも(笑)。

撮影協力:The 6 Market
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衣装:株式会社オオズ/ TOKYO PiXEL

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