SPECIAL
#9 | Nov 23, 2018

心に染み込むスモーキーヴォイスで人々に希望を与えるアーティスト、ホセ・ジェイムズ。「真実」を求め、音楽に人生を捧げることで起こった奇跡

Interview & Text: Kaya Takatsuna / Photo: Atsuko Tanaka

各々のフィールドで専門性を極め、グローバルな視点と感性を持って、さらなる高みを目指す海外のアーティストやビジネスパーソンなどをインタビューするコーナー「INLYTE(インライト)」。第9回目はジャズヴォーガリストでギタリストのホセ・ジェイムズ。プロジェクトごとに雰囲気をガラッと変える独自のスタイルと感性、そして心にすっと染み込むミドルヴォイスが、現代のジャズシーンに新鮮な彩りを与え続けている。
PROFILE

シンガー/ギタリストホセ・ジェイムズ/José James

ミネアポリス生まれ。14歳のときにラジオから流れてきたデューク・エリントンの「A列車で行こう」を聴き、ジャズにのめり込む。最も影響を受けたミュージシャンはジョン・コルトレーン。ニューヨークのニュースクール大学でジャズを専攻しながら、各国の様々なジャズ・コンテストに参加。コンテストでロンドンを訪れた際に、世界的クラブDJのジャイルス・ピーターソンと運命の出会いを果たす。ホセの声と音楽性に魅了されたジャイルスは「15年に1人の逸材」と断言し、自身が運営するブランズウッド・レコーディングスとの契約を即決。そして2008年、同レーベルからアルバム『ドリーマー』でデビュー。ヴォーカル・ジャズの歴史を塗り替えたとまで言われる美声は世界中で大絶賛されジャズ/クラブ・チャートを総なめにした。2012年、名門ジャズ・レーベル、ブルーノートへ移籍し、アルバム『ノー・ビギニング・ノー・エンド』でメジャー・デビュー。日本でもジャズ・チャート1位を記録し、シングル「トラブル」も全国ラジオチャート洋楽1位(2013年1月度)を獲得した。決して1か所にとどまることない貪欲なアーティスト性で、続く2014年発表の『ホワイル・ユー・ワー・スリーピング』ではインディー・ロック・サウンドに大胆シフト。さらに、敬愛するビリー・ホリデイの生誕100周年に合わせて発表した2015年のスタンダード集『イエスタデイ・アイ・ハド・ザ・ブルース~ビリー・ホリデイへのオマージュ』では、オーセンティックなジャズ・ヴォーカルを披露した。そして、2017年発表の『ラヴ・イン・ア・タイム・オブ・マッドネス』ではトラップ・ビートも導入したコンテンポラリーR&Bと、常にコンセプチュアルな作品で、時代に呼応した変幻自在なヴォーカルを表現し続けている。

ミネアポリス生まれ。教会の聖歌隊で賞賛され、14歳でヴォーカルの魅力に開眼。20代半ばでNYに渡り、名門大学でジャズを専攻した遅咲きの実力派

1978年、アメリカ中西部に位置するミネソタ州ミネアポリスに生まれたホセ・ジェイムズ。父親はパナマ出身のサックス奏者で、母親は大の音楽好きであったため、幼い頃から家にはいつも音楽が流れており、自然に音楽に触れる日々を送った。ジャズに開眼したのは14歳の時。ラジオから流れてきたデューク・エリントンの「A列車で行こう」を聴いてのめり込んだのだ。そして、同じ頃に声変わりをしたことがきっかけで、教会の聖歌隊でも歌い始めたホセは、すでにヒップホップにも傾倒しており、アトライブ・コールド・クエスト(A Tribe Called Quest)、デ・ラ・ソウル(De La Soul)、アトライブコールドクエスト(A Tribe Called Quest)、デ・ラ・ソウル(De La Soul)、アイス・キューブ(Ice Cube)などからも大きな影響を受けて青年期を過ごした。

プロの音楽家としての道を決心したのは17歳の頃。周りが大学へと進む中、ホセは音楽だけで食べていく道を選び、程なくしてホセ・ジェイムズ・カルテットとして活動をスタートする。大学に行ったのはそれから随分経った20代半ばになってからだった。

2000年からは拠点をニューヨークへ移し、ニュー・スクール・フォー・ジャズ&コンテンポラリー・ミュージックに入学してジャズを専攻しながら世界各国のジャズコンテストに参加する日々を送った。2006年にロンドンで行われたジャズコンテストに参加した際、クラブDJの大御所、ジャイルス・ピーターソンと出会い、ジャイルス自身が運営するブランズウッド・レコーディングスと契約。2008年に、ファーストアルバム「ザ・ドリーマー(The Dreamer)」をリリースした。続く2010年には「ブラックマジック(Blackmagic)」と「フォー・オール・ウィー・ノウ(For All We Know)」の2作をリリースし、後作はエジソン・アワードおよびアカデミー・ドゥ・ジャズのグランプリを獲得。

 

2012年には名門ジャズ・レーベルのブルーノートへ移籍し、「ノー・ビギニング・ノー・エンド(No Beginning No End)」を発表してメジャーデビューを果たす。また、2015年にはビリー・ホリデイに捧げて録音したトリビュート・アルバム「イエスタデイ・アイ・ハド・ザ・ブルース(Yesterday I Had The Blues – The Music Of Billie Holiday)」を発表し、ホセ自身が永遠のアイドルだと公言するビリー・ホリデイの名曲の数々を披露した。今年は、ブルーノート社長のドン・ウォズが再びプロデュースして、生誕80周年を迎えた伝説のソウル・シンガー・ソングライター、ビル・ウィザース(Bill Withers)へのトリビュート・アルバム「リーン・オン・ミー(Lean On Me)」を発表。間も無く自身のレーベルを立ち上げて新たなアルバムもリリース予定というホセだが、毎回アルバムを出すごとにコンセプトを変えて、様々なスタイルや音楽性に果敢に挑み続けている。

今回で17 度目の来日となったホセ・ジェイムズに、音楽へ傾倒したきっかけから、チャンスや成功について、アーティストとして成功するために大切なことや、ライブでの思い出深い経験などを伺った。

自分の才能を音楽に捧げれば、より良い瞬間や大きな奇跡に触れることができる。音楽を通して誰かの人生を変えることができたら、それが成功

—ホセさんは日本にもファンが多く、数多く来日されていますね。

最初に日本に来たのは2007年で、ゲスト出演で来日したのを入れたらもう17回目くらいだね。今回はまず広島に行って、オフの日は宮島に行ったよ。ピアニストの武司(大林武司)が広島出身だからいつも案内してくれるんだ。昨日の夜は大阪でライブをして、東京で今日から2日間やって、その後はLAに戻ってライブがある。

 

—ミネアポリスで生まれ育った少年時代の頃のことをお話ししていただけますか?

ミネアポリスはミネソタ州の郊外にあるんだけど、どの家にも必ず裏庭があって、自然がとても近いんだ。ミネソタは何千もの湖があることで知られていて、湖で泳いだり、キャンプしたりハイキングしたりとアウトドアが盛んな所で、子供は皆冬が好きだよ。僕も自然に慣れ親しんだ幼少期を過ごしたね。

 

—特に冬はとても寒いイメージがありますが、音楽は盛んなのですか?

ミネアポリスは北アメリカとカナダの真ん中あたりにあって凄く寒い所だけど、音楽シーンはとてもいい。なにしろプリンスの出身地だしね。素晴らしいロックやファンクシーンがあるし、ジャズもある。生活費も都会より安いから、デトロイトやシカゴから来るミュージシャンもいて、皆2階建てで地下やガレージがついている美しい家を借りているよ。あとは有名なGuthrie Theater(ガスリーシアター)を始め、劇場もたくさんあって、バレエやモダンダンス、ほかにもたくさんのアートがある。

 

—アートが充実した環境で育ったのですね。ところで、お父様はサックス奏者だったそうですね。

うん、だから運命だよね。でも親父は僕に音楽をやって欲しくなかったんだ。

 

—え?それはなぜですか?

僕の方が若くてセクシーだから、僕に嫉妬してたんじゃない(笑)?まるでシェイクスピアの作品にあるストーリーみたいだけど。親父は僕に有名なチェスプレイヤーかテニスのスター選手になって欲しかったんだよ。

 

—でもホセさんはミュージシャンになりたかったんですね。

僕はクリエイティブな思考はあるけど、チェスやテニスのように「どうやって相手を倒すか」みたいな戦略的な考え方はないから。それに、いつも自由でいたいし、色々学びたい。パフォーマンスやキャリアに関しては、フェスに出られたとか出られなかったとか、グラミー賞を受賞したとかしなかったとか、色々勝ち負けがあるけれど、音楽自体に競争はないし、本来そういうものじゃないよね。

 

—14歳の時にジャズに出逢ったそうですが、それがミュージシャン人生の中で最も大きな出来事と言えますか?

う〜ん、どれが一番かを話すのは難しいね。僕の音楽にはジャズとヒップホップの境界はないし、90年代の音楽の要素が混じり合っているからね。

 

—ヒップホップは誰が好きでした?

ア・トライブ・コールド・クエスト(A Tribe Called Quest)、デ・ラ・ソウル(De La Soul)、アイス・キューブ(Ice Cube)、サイプレス・ヒル(Cypress Hill)、ディガブル・プラネッツ(Digable Planets)、ビースティー・ボーイズ(Beastie Boys)。彼らは皆ジャズやファンク、ソウルからサンプリングを使って曲を作っていた。ただ、僕はその頃はまだ子供だったし、サンプリングのことを知らなかったから、そのことを全然理解できてなかったんだ。ヒップホップのルーツがどこだか知ってから、ジャズやソウルにのめり込んでいったね。

 

—プロのミュージシャンになろうと思ったのはいつ頃ですか?

17歳の頃。周りの友達はみんな大学に行こうとしてたけど、僕は大学に行かないでショーをやりたいと思ったんだ。ミネアポリスのいろんなところでライブをやって、自分のバンドを始めた。バンドは、僕がヴォーカルで、ベース、ドラム、チェロ、テナーサックスがいて、凄くアバンギャルドなジャズをやっていたよ。ホセ・ジェイムズ・カルテットとしてライブでジャズを演奏して、初めてギャラをもらったのが17歳の時だったかな。

 

—楽器を演奏するのではなく、ヴォーカリストになろうと思ったのはいつですか?

14歳の頃に声変わりをして、教会の聖歌隊で歌うようになったんだ。新たな声になったんだし何か挑戦してみたら?って周りに言われて聖歌隊に参加した。女の子がいるから楽しかったよ。僕が最初に行ったカトリックの高校は教会音楽を歌うんだけど、僕が「グロリア」を歌うたびにみんな凄く賞賛してくれたんだ。その頃からこの才能を活かして何かをしてみようって思って。

 

—ミネアポリスの学生時代からアーティストへの軌跡が始まったのですね。

ミネアポリスはアーティストに協力的な街だから、どうアーティストになったら良いかを学ぶのに適した場所なんだ。キャリアの始まりと終わりに居るのにはいい場所だと思う。でも、歌手としての仕事は結婚式や企業のイベントで歌うもの以外にないし、アーティストとして活動するには限界があるよね。

 

—ホセさんの声はとても特徴的でほかにはいない声だと思います。それをご自身が意識したのはいつ頃ですか?

うーん、わからないなぁ。自分の声で満足できるようになるにはすごい時間がかかったよ。長いこと僕のアイドルはビリー・ホリデイなんだけど、彼女みたいに歌いたいと思っても絶対不可能だし、好きなシンガーのように歌おうとチャレンジしても喉を潰してしまう。せめて話す声を変えたいと思ったって、喉の筋肉を痛めてしまうしね。

 

—いろいろ試行錯誤された時代もあったのですね。

僕が初めてレコード会社と契約した時は、すでに28歳だった。ジャズにしては若いけど、他のジャンルは10代でデビューする人が多いから、それと比べるととても遅いよね。でもどうやってアーティストになるべきかって考えたら、僕の中には50年代、60年代の作家や画家、ジャズミュージシャンから学んだ、“やりたいことを実現するには、ちゃんと時間をかけて経験を積むことが必要”というオールドスクールな考え方があってね。それに、そこに辿り着くまでに、自分の伝えたいことをちゃんと知るべきだとも思ったし。でも歳を重ねていくうちに、「このままで本当に大丈夫なのかな?」ってちょっと怖くなったことも正直あったよ。

 

—もし当時のあなたのような境遇にいる若いアーティストたちで、夢を追うか、諦めるか悩んでいる人にアドバイスを送るとしたらなんと言いますか?

アドバイスよりもっと大切なことは、「真実」だよ。もし本当に君の才能が本物ならそれしか道はない。僕が幸せになれる唯一のことが音楽だということは、まぎれもない真実なんだ。音楽でもスポーツでも、自分の才能を途中で諦めてしまった人が後になってから、「昔、ギターをやっていたんだ」とか語るのをよく聞くよね。僕がもしこの才能を諦めてしまっていたら、とても惨めな思いをしてたと思う。

50年代に遡って、例えばジャクソン・ポロックとかジョン・コルトレーンとか過去の巨匠達は皆同じことを言うけれど、金持ちになろうと思ってアートや音楽をやっていたわけではなく、純粋に最高なものを作ろうとしていたんだ。もちろん楽しいことばかりじゃないし、アーティストはお金やキャリアを追求するべきじゃないと言いたいわけでもないよ。ただ、もしも歌う理由が、金持ちになって有名になるためだったら、幸せにはなれないよ。だって自分より若くて美しく、優れた才能を持った人がどんどん出てくるわけだから。

 

—では、ホセさんにとって成功とはなんですか?

成功に対する考え方はその時々で変わると思う。人間として成長するために、常にその時々で成功の指標を持つことは大事なことだと思うんだ。僕は、もっと若い時はレコード会社と契約して、自分の名前をあちこちで目にして自慢できることが成功だと思っていた。次の段階では、人々に理解されようがされまいが気にせずに、曲を書いたりプロデュースしたりして、自分の作りたいアルバムを世に出して、純粋にアーティストでいることが成功の指標だった。でも今は、僕の音楽を通して誰かの人生を変えることが成功だと思っている。そういえばこの前、凄い経験をしたんだ。

 

—どんな経験をしたのですか?

ワシントンD.C.にあるジョン・F・ケネディー・センターという大きな会場でライブをやった時の出来事なんだけど、チケットもソールドアウトで、みんな僕の音楽を本当に聴きたがってくれていて、思いの強さに心を動かされたプロジェクトだった。そこで、「Lean on me」を歌った時、会場にいたある女性が僕に何かを語りかけている気がして、何か特別な繋がりを感じたんだ。それで僕は彼女に近寄って手を握った。いつもはそんなことやらないんだけど、それはとてもいい瞬間だった。

その後ライブから数ヶ月経って、彼女の友達からFacebookにメッセージが届いた。あの日手を握った女性は僕のファンで、ライブを観た後に亡くなってしまったと。癌でずっと寝たきりの生活を送っていたんだけど、あの日はライブに行くために頑張ってベッドから出て来てくれたって。それを知らされた時は衝撃だったよ。もちろん僕は彼女が病気だったなんて知らなかったし、あの時も、頭で考えて行動したのではなく、スピリチュアルなものを心で感じたんだよね。それが彼女の生涯最後のライブだったとは。これは、全身全霊で自分の才能を音楽に捧げれば、より良い瞬間や大きな奇跡に触れることができることを身を以て経験した出来事だった。それこそが僕にとっての成功だと思う。

 

ライブで披露する歌声のようにソフトなのに力強く、そして独特の音色とテンポで言葉を紡ぎ出すように一つ一つの質問に丁寧に答えてくれたホセ・ジェイムズ。ライブで観客と奇跡的に繋がった時を振り返り話すホセの表情は、とても生き生きとして清々しかった。

 

以下は11月1日にビルボードライブ東京にて行われたライブのレポート。

今年生誕80周年を迎えた伝説のソウル・シンガー・ソングライター、ビル・ウィザースへのトリビュート・アルバム「Lean On Me」の発売と共に来日した今回は、アルバムの曲を中心に往年のビルの名曲の数々を披露した。オープニングアクトには、間も無く始まるホセ自身のレーベルにも参加している女性ヴォーカリストのターリが登場し、静かで艶やかな世界観を表現。ほどなくして、バンドメンバー大林武司(ピアノ)、ベン・ウィリアムス(ベース)、ネイト・スミス(ドラムス)、ブラッド・アレン・ウィリアムズ(ギター)と共にステージに現れたホセは、「Ain’t No Sunshine」からしっとりと力強く歌い始めた。観客は一曲目からじっくりとその稀有なスモーキーヴォイスに聴き入った。

 

Photo by Masanori Naruse

次の「Grandma’s Hands」では、ベース、ギター、キーボードそれぞれが思う存分ソロを披露し、ラストはホセ自身もレコードをスクラッチするジェスチャーを魅せながらオリジナルのアレンジを繰り返すと観客からは歓声が上がる。「トーキョー!ありがとうございます。ホセ・ジェイムズです!」と言ってメンバー紹介すると、「Who is He」、「Use Me」、アルバムのタイトルでもある「Lean On Me」では深く豊かなチェストヴォイスを響かせ熱唱した。「どうだった?気に入ってくれた? 残念ながら、実際にビル・ウィザースが歌っているのをライブで観たことはないけど、ビルの曲はどれも素晴らしいものばかり。彼の曲を歌えることを嬉しく思います」と話した。

その後、ステージ上ではバンドリーダーでグラミー賞にノミネートされたネイト・スミスのドラムソロが続き、会場が徐々に盛り上がってくると、他も加わり音が厚みを増していく。そしてそのまま「Kissing My Love」が始まると、客席にホセが登場。バルコニー席の観客と握手やハイタッチをしながら歌って階段を降り、ステージへと向かうホセに何度も歓声が響く。

 

Photo by Masanori Naruse

その後は、「とても愛した人がいたけれど結ばれなかった、そんな過去を持つすべての人たちに捧げます」と言って、「Hello Like Before」を深く切なく歌いあげた。先ほどまでの盛り上がりとは対照的に静まり返った観客は、それぞれの過去に思いを馳せ、ノスタルジックな気持ちで聴き入っているようだった。そしてラストは「歌いたい人はぜひ一緒に」と言って、アップテンポな「Just The Two of Us」、「Lovely Day」で締めくくり、アンコールは、2017年にリリースした自身のアルバム「Love in a Time of Madness」から「Live Your Fantasy」を披露。往年の名曲の数々を存分に聴かせ、最後はオリジナル曲で締めくくったホセの魅力全開のライブの後は、会場に穏やかで優しい余韻が残っていた。

 

 

 

ホセ・ジェイムズ Information