生化学の博士号を持つ男がウイスキー業界に邁進。異分野で知識と才能を生かし、“革新的なウイスキークリエイター”として尊敬される存在に
昔からサイエンスが大好きだったと語るビル・ラムズデン博士は、スコットランドのグラスゴー大学で生化学を学んだのち、エジンバラのヘリオット・ワット大学院で微生物生理学と発酵科学を研究していた。ある時、パーティーで友人に勧められて初めて飲んだシングルモルトスコッチウイスキーの「グレンモーレンジィ」の美味しさに感動を覚える。ウイスキーに運命のようなものを感じた彼は、エジンバラのローンマーケットにあるバー「ジョリー・ジャッジ」に通いつめ、ウイスキーへの知識を深めていった。そうするうちに、それまで学んできたことを医科学の分野ではなくウイスキー造りに活かせないかと考えるようになり、その道に進むことを決心。
その後、ディアジオ社に入社してからの10年間は、楽しく仕事をしながら充実した毎日を送っていたが、新たなチャレンジを志し、様々な新しいことに積極的に取り組むグレンモーレンジィ社に転職。蒸留所のマネージャーとして3年間働いたあと、98年に最高蒸留・製造責任者に就任した。なお、ラムズデン博士はグレンモーレンジィの他にも、“究極のアイラモルト”として熱烈な支持を得る「アードベッグ」も手がけているが、全く違うタイプの二つのウイスキー造りを楽しんでいると言う。
また、ラムズデン博士はウイスキーにまつわる数多くの賞を獲得している。2001 年、2006 年、2008 年にモルト・アドヴォケート・アワードのインダストリー・リーダー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、2010 年にはインターナショナル・ワインズ・アンド・スピリッツ(IWSC)において、業界への貢献を表彰された。そして、2015 年と2018年にインターナショナル・スピリッツ・チャレンジ(ISC)においてマスター・ブレンダー/ディスティラー・オブ・ザ・イヤーを、2016 年のウイスキー・マガジンではスコットランドの最優秀マスター・ブレンダー/ディスティラーを獲得している。今もなおウイスキー作りに対する変わらぬ情熱を注ぎ続ける姿勢に、ウイスキー業界からは“革新的なウイスキークリエイター”として尊敬を集めている。
2018年インターナショナル・スピリッツ・チャレンジ(ISC)授賞式にて
グレンモーレンジィの蒸留所は今年、創立175周年を記念して、蒸留所を拡張することを発表。また、来年はグレンモーレンジィのプライベートエディション第10弾がリリースされる予定。今までのものと全く異ったアプローチの仕上がりとなるそうだ。大の日本好きで約20回目の来日を果たしたラムズデン博士に、ウイスキーとの出逢い、製品作りにおいて一番大切にしていること、建設中の新しい蒸留所についてや、日本の文化に対して思うことなどを聞いた。
成功とはグレンモーレンジィに変化をもたらすこと。自分が造るウイスキーを飲んだ人々に幸せを感じて欲しい
—まずはじめに、グレンモーレンジィの歴史について少し教えていただけますか?
グレンモーレンジィの蒸留所は1843年にスコットランドのハイランドに設立され、1918年にスコッチウイスキーのブレンダーで名高いマクドナルド家によって買収されました。そして2005年にLVMHに買収され、その後はシングルモルトウイスキー造りにより一層力を入れています。
—蒸留所があるハイランドはどんな所なのですか?
とても景色の美しい所です。雨がよく降り、自然や天候はとても厳しいので、あまり人は住んでいません。私は蒸留所のマネージャーをしていた頃はハイランドに住んでいましたが、現在は本社があるエジンバラに住んでいます。
グレンモーレンジィ蒸留所
—ラムズデン博士はグレンモーレンジィだけでなく、アードベッグも手がけられているのですよね。
はい、ソフトでエレガントな味わいが特徴で比較的飲みやすいグレンモーレンジィに対して、アードベッグはとても個性的で、スコットランドで最もピーティー(スモーキーな香りが最大限に活かされた)なウイスキーとして知られています。アードベッグの蒸留所はスコットランドのアイラ島に1815年に設立されましたが、高い評判を得たにも関わらず、蒸留所は開いたり閉じたりを繰り返したのち、80年代に余儀なく閉鎖されることに。そこで、アードベッグを救うべく、グレンモーレンジィ社が97年に買収したのです。全く違うタイプの二つのウイスキーを作ることに関しては、とてもやりがいを感じています。
左:グレンモーレンジィ 右:アードベッグ
—ラムズデン博士のバックグランドについてお伺いしたいです。ウイスキーとの出逢いはいつ頃だったのでしょう?
私は科学が大好きで、大学で生化学を学び、博士号を取りました。そろそろ就職を考えないといけないと思っていた頃、シングルモルトウイスキーに初めて出逢ったんです。学生の時に行ったパーティーで、たまたまその時に飲んだのがグレンモーレンジィの10年でした。それまで飲んでいたブレンデッドウイスキーとは全く違って、とても美味しいと感動しました。そこで、それまで学んできたことを医療的な科学の世界ではなく、ウイスキー造りの分野で活かしてみたいと思ったのです。
そしてディアジオ社に就職し、そこで10年働きました。仕事は楽しかったですが、私がウイスキー造りにおいて挑戦してみたかった実験ができそうなグレンモーレンジィに新たな可能性を感じて転職することを決め、95年に蒸留所のマネージャーとして入社しました。
—現在は蒸留所の最高責任者でおられますが、そのような方が科学のバックグランドをお持ちなのは、ウイスキー業界ではよくあることなのですか?
今はそうでもなくなってきているようですが、当時はとても珍しかったと思います。
—生化学で学んできたことは、今どのように活かされているのでしょうか?
科学者であることで、生産プロセスにおいてウイスキーのフレーバーがどこから来るのかなど、より理解できると思います。でも私が常に感じているのは、ウイスキー造りって、科学というよりむしろアートなんです。自分の気持ちや感情といったものが私の造るウイスキーの中に含まれているように思うのです。
—究極のウイスキーを造るために、様々な実験や時には失敗を繰り返して今に至ると思いますが、今まで一番辛かったことはどんなことですか?
センシティブな話でもあるのですが、スコットランドの独立起業として長い歴史を刻んできたグレンモーレンジィがフランスの企業であるLMVHに買収された時かもしれません。でもそのおかげで、投資が増え、生産量も増え、ウイスキー造りにおける実験費用の予算もいただけたので結果良かったと思っていますが。
—逆に一番嬉しかったことは?
グレンモーレンジィの最高蒸留責任者として働けていること自体が私にとっては特別なことです。一番初めに飲んだシングルモルトウイスキーがグレンモーレンジィでしたから、今それを自分が造っていると思うと、なんだかホームに戻ってきたように感じます。あとは、「*シグネット」が完成した時。何年も実験を繰り返し重ねて出来上がった商品で、スコッチウイスキー業界の中で初の試みにチャレンジしたこともあり、できた時にはとても光栄に思いました。
*グレンモーレンジィが長年の研究を重ね、チョコレートモルト(焙煎した麦芽)を使用するなどユニークな製法で生み出したベルベットのような味わいのプレミアム・シングルモルトウイスキー
シグネット
—ウイスキーを造る上で一番大切にしていることはなんですか?
私にとって大切なのは、何かの賞をとることや、それによって有名になることではなく、私が造ったウイスキーを飲んだ人たちが幸せになることです。私には40年来の親友がいるんですが、昔、彼のお父さんが当時ではスコットランドでも珍しいグレンモーレンジィのシングルモルトをよく飲んでいたのを覚えています。彼はもう亡くなりましたが、今も生きていて、私が造ったグレンモーレンジィを飲んだら、どう思ってくれるのだろうと時々思うことがあります。
—きっとラムズデン博士のことを誇りに思ってくれるでしょうね。ところで、グレンモーレンジィの蒸留所で使われている*ポットスチルは、スコットランドで一番背が高いものだそうですが、これを使うことによってどんな特徴になるのかを教えてください。
*モルトウイスキーなどの蒸留に使用する単式蒸留釜
ポットスチルの長い首の部分はスワンネックと呼ばれているのですが、うちで使っているものは5メートル強もあるんです。だからグレンモーレンジィのブランドマスコットはキリンなんですよ。これを使うことによって、蒸留された原酒の雑味のあるオイリーな部分が上の方まで行かないので、ピュアでエレガントで豊かな香りだけが残るんです。ちなみに創業当時は、ポットスチルの背はここまで高くなかったようです。アルフレッド・バーナードというライターが、昔、スコットランドの全ての蒸溜所を周って、その様子を本に残しているのですが、それによるとグレンモーレンジィの蒸溜所は1837年に建て直され、それ以降このスタイルになったそうです。その理由は記録に残っていないのでわかりませんが。
グレンモーレンジィ蒸留所のポットスチル
—蒸留所が近々拡張されるとお聞きしました。具体的にどのようなことが行われているのですか?
新たに2基のポットスチルを入れ、新しい棟も建設中です。現在、蒸留所には12基のポットスチルがあるのですが、全てがずっと稼働し続けているので、新しい製品を造りたいと思っても造れないんです。例えば、シグネットのような製品を造るとなると、他のものと原料が違うので、ポットスチルを全部綺麗に掃除して、設備全体をシグネット用に変えないといけない。それで4年ほど前に私のボスに話を持ちかけ、新しくポットスチルを入れることになりました。新しい棟も増えるので、だいぶ効率が良くなると思います。建設は始まったばかりですが、蒸留の作業はできれば2020年の第3四半期くらいにスタートしたいと考えています。
—ちなみにポットスチルの寿命はどのくらいなのですか?
どのくらいの頻度で使っているかにもよるのですが、常にポットスチルを稼働させている状態ですと大体15年くらいだと思います。ポットスチルは銅で作られていて、使っているうちに銅の部分がだんだん薄くなってしまうんです。
—来年リリースされる、グレンモーレンジィのプライベートエディション第10弾についてお聞かせください。
プライベートエディションは今年で10回目ということで、いつもよりさらに特別なものにしようと思っています。毎回プライベートエディションを造るために常々蒸留所でいろんな実験をしていますが、今年はさらに革新的なものを造りたいということで、スコッチウイスキーの業界において、未だかつて誰もやったことのない試みに取り組んでいます。詳しいことは言えませんが、私が博士号を取ったときの論文をチェックしていただけるとそこにヒントが隠れているかもしれません。論文は、ヘリオット・ワット大学のウエブサイトに掲載されているかと思います。
—今回の試みのアイデアは、ずっと前から構想していたものなのですか?
アイデアの元は97年に遡ります。当時私はまだ蒸留所のマネージャーをしていて、ある時、ウイスキーのライターで有名なマイケル・ジャクソン氏が蒸留所に来たのですが、その時に彼が言っていたことからヒントを得ています。
—どんなものが出来上がるのか楽しみにしたいと思います。ラムズデン博士は、日本がお好きだそうで、既に約20回ほど来日されているそうですね。
日本はいつか住みたいと思うくらい大好きな国です。世界の他の国と比べて、言葉、文化、食など、色々な意味で違うところを持っているのが面白いと思います。そしてとても綺麗で秩序があり、皆さんはマナーがあって、本当に素晴らしい国だと思います。あと、日本人の細かいディテールへのこだわりも大好きです。
—日本人を見ていて、スコットランド人と共通すると思うところはありますか?
何かあるとすれば、情熱かと思います。ウイスキーに関して言うと、日本の方たちはすごく細かいところまで知りたがるんですよね。そういうところはスコットランド人と似ているかもしれません。
—ラムズデン博士は日本にいる間はいつもどんなことをされるのですか?
大抵いつも仕事で終わってしまうんですけど、今回は少し自由な時間がありそうです。昨日は日本橋から銀座まで歩いて、最後にビールを堪能しました。ウイスキーは仕事でたくさん飲んでいるので、一人の時は違うものを飲むんです。ショッピングも大好きで、洋服を買うことが多いです。日本で私のサイズを見つけるのはなかなか難しいけれどね。あと、週末には山崎の蒸留所に行きます。15年以上ぶりなので、だいぶ変わったでしょうね。
—以前、山崎の蒸留所に行かれた時はどういう印象を受けましたか?
あまりにも綺麗で整然としていて、ここで本当にウイスキーを造っているのかと思ったくらいでした。2か月ほど前にマッカランの蒸留所に行った時も、同じような印象を受けました。対照的だったのが余市の蒸留所で、そこはウイスキーの香りがたくさんしましたね。
—ラムズデン博士が好きなウイスキーの飲み方、どんな場所で、どんなシチュエーションでなど何かあれば教えてください。
私の家には相当なウイスキーのコレクションがあるので、その中でも貴重な珍しい一本を空けて、それを友達と一緒に飲むのがいいですね。
ーそれでは最後に、ラムズデン博士にとって成功とはなんですか?
私が引退した後、みんなに「ビルはグレンモーレンジィに変化をもたらした男だね」と言ってもらえれば、それが私にとっての成功です。私自身はまだ成功したとは言えないと思っていますし、そう思えるにはまだ時間がかかりそうです。
ウイスキー界で数多くの栄誉ある賞を受賞し、一目置かれる存在にも関わらず、質問に対して一つひとつ丁寧に答えてくれた姿が印象的だった。なお、11月の16日と17日に、六本木ヒルズアリーナでグレンモーレンジィのイベントが行われ、ジャズを聴きながら、エレガントな味わいの様々なグレンモーレンジィを堪能することができる。ラムズデン博士がウイスキーに込めた想いを想像しながら、ウイスキーを味わってはいかがだろうか。