| Feb 21, 2025

主演作『逃走』が映し出す俳優人生。演技を学んだニューヨーク時代、青年団での経験を経て確立した独自の存在感、そして今、俳優として考えること

Text: Atsuko Tanaka / Photo: Atsuko Tanaka & Shusei Sato

HIGHFLYERS 第62回目のゲストは、俳優の古舘寛治さん。幼い頃からアメリカ映画に魅了され、高校卒業後に俳優を志して上京。その後、本格的に演技を学ぶためニューヨークへ渡り、30歳を前に帰国しました。4年後には青年団に入団し、多くの出会いを通じて俳優としての道を切り開いていきます。舞台、映画、テレビドラマと幅広い作品に出演し、唯一無二の存在感を放つ古舘さん。今回のインタビューでは、これまでの半生や、主演を務めた足立正生監督の最新作『逃走』について、さらに人生観に影響を与えた出来事、成功、そして未来の展望についてお話を伺いました。
PROFILE

俳優 古舘寛治

舞台俳優としてキャリアをスタートし、映画・ドラマ など多数出演。近年の出演作は、映画では『めくらやなぎと眠る女』(24/ピエール・フ ォルデス監督)、『アナウンサーたちの戦争』(24/一木正恵監督)、『ほつれる』(23/加藤拓也監督)、『アネット』(22/レオス・カラックス監督)、『子供はわかってあげない』(21/沖田修一監督)、『罪の声』(20/土井裕泰監督)、ドラマでは「滅相も無い」(24/毎日放送)、「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」(24/NHK)など。 『淵に立つ』(16/深田晃司監督)ではカンヌ「ある視点」部門で審査員賞、ドラマ「コタキ兄弟と四苦八苦」(20/テレビ東京)ではギャラクシー賞など複数の受賞をした。公開待機作に、3月公開のマーク・ギル監督作品「レイブンズ」がある。


 

―まずは小さい頃のことからお聞かせください。どんな子どもでしたか?

自分のことは客観的に見えないのでわからないですけど、客観的に見たら嫌な子どもだったかもしれないです。あんまり天真爛漫に楽しく生きてなかったし、大人を斜めに見ていたんじゃないですかね。親には反発したし、学校も嫌だった。僕が当時住んでいたところはそんなに都会じゃなくて、遊ぶ場所もなかったから、家でテレビで映画を見ることが多かったです。そういう映画の世界に憧れて、今思うとフィクションに救われてたんじゃないかな。

 

―ご両親はどんな方でどういう教育方針でしたか?

普通の家庭というか、親父は会社員で、工場で細かい部品を作るような仕事をして、母親はパートをやったりしてました。周りに比べるとうちはお金がないな、みたいなイメージでしたかね。そんな感じだったんで、僕は早く大人になりたいと思ってましたね。

 

―中学ぐらいの頃も、映画が好きでよく見ていたんですか?

そうですね、特にロバート・デニーロの『ディア・ハンター』に感動した記憶があります。他にもポール・ニューマンとか、スティーブ・マックイーンとか、大スターの映画にすごく影響を受けて、その後俳優になりたいと思うようになりました。だんだんエンタメ系じゃないものが好きになって、東京に来てからはマーティン・スコセッシ監督とデニーロのコンビで撮った映画にハマり、彼らの作品は全て見ました。

 

 

ー高校卒業後は上京されるんですよね。

東京で俳優を目指しながら、出会った人たちといろいろやって、何となく縁を伝って進んでいくのかなと思っていたんですけど、自分がやりたいこととあんまり重ならず、面白いと思う表現に出会うこともなかったので、どうしようかなと思いアメリカに行くことを決めました。

 

―ニューヨークに行かれたのは23歳の時、HBスタジオという演技の学校に通い、演技理論(メソッド・アクティング)を学ばれます。いかがでしたか?

僕は真面目な人間だから、その理論がぴったりハマってすごく楽しかったです。英語は全然だめだったけれど、やってることが面白かったし、学校の生活とバイトで充実していたんでしょうね。最初は違う文化と触れ合って、ちょっと冒険してみようみたいな感じで2、3年住む予定が、実際生活してみるとまだまだ帰れないってずるずると延びて。20代が終わる頃、このまま30代になったらやばいなと思って、29歳で帰国しました。

 

―帰国後は、演技において向こうとのやり方の違いに戸惑うことなどはありましたか?

日本って特殊なところなんですよね。アメリカもヨーロッパも俳優学校がちゃんとあって、俳優になりたかったらそこに通って、技術を身につけたらオーディションを受けて、実力がともなって面白いって誰かに見つけてもらえたら仕事がもらえるというような流れなんだけども、日本はそういう学ぶところもなければオーディションも本当に少ないので、どこから入っていけばいいのか悩んだ時期がしばらくありました。

でも舞台はわりとオーディションがあったので、小劇場のオーディションを受けて出たり、友人の紹介で参加したりして。いわゆる新劇系の演出家たちとは、あまりうまくいかなかったこともありましたね。俳優に向いてないからやめた方がいいと言われたこともありました。

 

 

―それは辛いですね。

そんな中、友人たちから演出を頼まれることが増えていきました。2回演出をして、もう1回演出の話が来たんですけど、このままだと演出家になっちゃうなって、演じたい欲求の方が強かったので青年団に入ったんです。本当は集団があまり好きじゃないから、劇団には入りたくないと思っていたんだけど、もう入るしかないと思って。そうしたらそこでいろんな人と出会うことができて、徐々に作品の出演に繋がったり、映像の人たちからも呼ばれるようになっていきました。

 

―俳優としてブレイクスルーとなったきっかけや作品を挙げるとしたら何になりますか?

舞台と映画両方の作家である山内ケンジさんが当時まだCMディレクターとして有名だった頃、僕が出てる舞台とかも観てくださっていて、NOVAのCMに出ることになったんです。それが結構大きな展開になり、CMが面白かったから評判も良く、人に道端で気づかれるみたいなことになりました。それが39とか40歳の頃で、そこから何となくバイトせずに食べていけるようになった感じですね。

 

―では、来月公開される映画『逃走』についてお聞かせください。東アジア反日武装戦線「さそり」の元メンバー・桐島聡役を演じられていますが、この役のお話を聞いた時、どう思われましたか?

こういうご時世ですし、あまり人がやりたがらないような役だろうなと思って、どうしようかなという躊躇はありました。でも脚本を読んだら面白かったのと、主役をやる機会はほとんどない僕に声をかけてくれているんだし、足立監督には一度お会いしないとと思って。気持ちは全く固まらないままお会いしたんですけど、最近全く出会うことのないようなとても魅力のある方で、これはもうやるしかないって、やらせてもらうことになりました。

 

 

桐島のことは、(桐島が関わった)爆破事件があった当時からご存知でしたか?

僕は小学校にも上がる、上がらないぐらいの時だったと思うんで、ほとんど記憶になかったです。でも笑顔の指名手配写真っていうのはあまりないので、確かに言われてみたら違和感を感じたことはあるかな、くらい。大人になって東京に出てきてからも、あんまり覚えがないし、その後アメリカに行ったので。

 

―そういう中で役作りというか、演じるのにフォーカスしたこととか、苦労されたことなどはありましたか?

実在する人物は、いろんな人の中にリアルなその方の記憶があるから、わりと気を遣うというか、フィクションとは違う難しさは感じます。でも桐島の場合は、大体の彼を知る方はほぼ内田さんとしてしか認識していないので、そういう意味では自由にやれるような気がして、フィクションをやるのと変わらないように演じました。それに、脚本に書かれた桐島さんを演じるということは、そもそもリアルな桐島さんとは全然違うものを求められてると思いましたし。大変だったことで言うと、主役なので覚えるセリフが大量にあったことや、撮影時間が短かったこととかですかね。

 

―先ほど足立監督はとても魅力的な方だとおっしゃってましたけれどもこの作品を通して監督から何か学んだことや感じたことはありましたか?

撮影中は作品を撮るだけで大変で、足立さんとゆっくり話す時間もなかったですから、何かを学んだというのは難しいですけど、むしろこれからも足立さんから学びたい、本当は毎日でも会いたいと思うくらいの魅力を感じる方です。最近こういう人になりたいって憧れるような人が少ない時代だと思うんです。昔はもうちょっといたと思うんですけど、社会がどんどん停滞して、そういう人が少なくなっていってる。憧れるロールモデルみたいな人がいない時代に、足立さんはこんな人になりたいなって思う方ですね。びっくりするような体験をいっぱいされてきたんだろうとも思いますし、例えば中東での話とか、聞きたいことはいっぱいあるんだけれど、どこから聞いたらいいんだろうって。そういう本を書いたらいいんじゃないですかって言ったら、みんなに言われるけどあんまり興味ないっておっしゃられてました。

 

―完成した作品をご覧になって、古舘さんご自身はどういうふうに思われましたか?

俳優として、自分が出てるものを評価するのはちょっと難しいんですよね。今回はすごい壮大なストーリーを10日間で撮りましたし。

 

©「逃走」制作プロジェクト2025

10日間ですか!

無茶だろうっていうことをされてる、85歳の尊敬すべき先輩の作品を語るのは難しいですね。まあ自分としては、ベストは尽くしましたけど。

 

―私個人的には、もっとダークでシリアスな感じの作品を想像していたら、そういう感じは全くなく、最後のシーンなんかは少し心がホッとした感じがありました。

それはありがたいです。僕は中にいるんで、そういう見方はあんまりできなくなってますけども、確かにそこはこの作品の重要なポイントで、多分監督の一番見てもらいたいところでしょうね。作品の規模に関わらず、どんな作品にも必ずその監督自身が投影されていると思うんですけど、今おっしゃったような、妙な若々しさとか明るさとか、そういうものはやっぱり足立さんご自身のキャラクターがとても反映されてるんだろうなと思います。

 

―なるほど。

僕が監督だったら、このストーリーを10日間で撮るなんて勘弁してくださいって拒否すると思うんです。もちろん足立さんは人に頼まれてじゃなくて、自分がやりたくてやっているんだけども、足立さんがなぜそうまでして撮りたかったかというのはとても重要で。そこは僕も一番聞きたいことですけど、きっと本当に実在した桐島さんを映画に残したいということではないと思うんですね。その理由は多分少し別のとこにあって、半分は足立さんご自身のことなんだろうなって、足立さんが人生をどうやって生きてきたかと重なるんじゃないですかね。特殊な人生を生きてこられた足立さんとしては、自分の人生の価値観を共有できるような人ってそんなにいないと思うんで、桐島さんの作品にせざるを得なかったというか。

 

古舘さんご自身は、この作品をどういう方に見てほしいとかありますか?

僕はもちろんどなたにも見てほしいですけど、監督にとっては、どういう方にっていうのは特になくても、やっぱり若い人に見てもらいたいんでしょうね。どんな作品を作ってもそれはそうで、なぜなら何かを表現したい人間というのは、人に影響を与えたい、何かを伝えたいと思ってやっているんで、そうなるとこれからの大変な世界を生きていかなければいけない若者たちにこそ届けたいんじゃないかな。いや、でも足立さんはやっぱり当時の同じように闘った同志たちに届けたい思いも強いか。多分そうですね。

 

―では、これまでご自身の活動を続けてきた中で、一番辛かった時期や出来事などを挙げるとしたら何になりますか?

日本に帰ってきてから劇団に入るまでの頃は、特に何をするというのもなく、バイトをしながら、もちろん舞台にも出たり、その後に演出もするんだけども、僕が全く面白いと思えない作品に出て、演出家からは否定されていました。それはもう地獄のような時でしたね。まあ、僕がつまらない顔してるんで、演出家が気に入らないのは当たり前なんだけど。演劇だけじゃなく、映像でも同じようなことがありましたし、そういうのは辛いですよね。だから僕は出演する作品は選びます。

 

―では一番嬉しかった出来事は?

嬉しかったことは、わりとたくさんありますね。自分が面白いと思えるものをやってる時は楽しいですし、考えもしなかった幸運がたまに起こりますから、そういう時は嬉しい。例えば『コタキ兄弟と四苦八苦』っていうテレビドラマをやった時。テレビドラマで僕が主役なんて絶対できる訳がないと思っていたけど、滝藤(賢一)くんに声をかけて企画を立てて、プロデューサーと脚本家の野木(亜紀子)さんに相談して、最終的にタイミングが合って上手くいったのは奇跡的なことだと思うんです。それでとても面白い作品ができたので、僕は最高に満足してます。残念ながら視聴率が低くて続編に至らなかったですけど、また作れたらいいなと思ってる作品です。

あと、静岡にある、日本ではとても珍しいヨーロッパ的な運営をしてるSPACという劇団があって、そこで演出させてもらったことも、これ以上ない幸せだなと、僕は本当にラッキーだなと思えるような経験でした。それから、『淵に立つ』という映画でカンヌに行って賞をいただいた時も嬉しかったですね。僕みたいなマイナーな俳優がカンヌに行けるなんて思ってなかったんで、レッドカーペットを歩いたりして、とても楽しかった。

 

―これからもたくさんありそうですね!では古舘さんの演技のスタイルを一言で表すとしたら何になりますか?

一言で表すとしたら、「演技をしない」っていうのが僕の理想です。説明が難しいですけど、演技をしてるように見えない演技ということですね。作品ではフィクションという作りものの世界にいる人間を演じるわけだけど、その中で本当に生きてるように見える人間がいるのが一番面白いことだと思うし、そういう俳優で満たされた作品が僕は好きだし見たいと思う。映画でも舞台でも、「この人芝居してないんじゃないかな?」って思うような人が出てくるとドキドキワクワクするんで、そういうものを自分も目指すし、作りたいなと思ってます。

 

―ご自身の価値観に変化や気づきを与えてくれた出会いや言葉、出来事などはありますか?

こういう質問をされる時にやっぱり思いつくのは、ニューヨークで大きな交通事故にあった時のことです。僕は車の後部座席で寝ていて、目が覚めたら病院で車椅子に乗っていました。もうちょっとひどかったら体が動かなくなるような大事故だったんですけど、退院する時に見た外の風景、緑の芝と真っ青な空がとても美しくて、「この世って天国だったんだ」って気ついた感覚があったんです。いっぺん死んで無の世界に行きかけて、またこの世に戻ってきて、「俺が生きてたこの世って天国だったんだな」って感激した。そこからこの世を見る目が変わったので、僕の価値観が変わったのはその時なんですよね。もっとちゃんと説明しないと伝わらないぐらいの話なんですけどね。

 

―なんか映画のワンシーンみたいですね。

実際にこういう体験をしたようなことを言ってる人は結構多くいますね。戦後に東南アジアで捕まった日本の将校たちが、裁判で死刑が決まった帰り道で、同じようなことを感じたと書いてあるらしいんです。彼らの場合は、この世と切り離される前に死を感じて、それまで当たり前に生きてたこの世が全く違った世界に見えたと思うんですけど、僕の場合は逆で、いっぺん切り離されて戻ってきた時に感じた。そういう経験をして、ものすごくラッキーだと思うんです。何をのんきなこと言ってんだと思われるかもしれないけど、本当にこの世に生きてるって奇跡だと思います。

そして、この世は天国だなと思った後に実感したのは、地獄って人間が作ってるんだなということ。天国も地獄もこの世にあって、人間が地獄を作るんだって、そこから人間は残念な生き物だと思うようになりました。こういうことを言ったら批判されるんでしょうけれど。

 

―深いですね。では、チャンスという言葉を聞いて、どういうことを思い浮かべますか?

この世という、とてもミラクルな世界に生きてるんだから、そこに生まれた自分がチャンスというか、生きてこの世にいる=奇跡の場にいるということだと思います。生きている間しかチャンスはないので、その間にやりたいことをやるだけでしょっていう、生きてること自体がチャンスなんじゃないですかね。死んだら何もできないんでね。

でも、生きていてもチャンスを閉ざされてる人たちもいるわけで、例えば今すぐ思い浮かぶのはガザの人たち、あそこで地獄を人間が作ってるわけですけども、そういうチャンスがない人たちがいたり、 日本にだってチャンスが全くないと思うような人たちはいるだろうし。また、チャンスがあっても自分で潰している人もいるかもしれないけれど、それは勿体ないなと思う。せっかく生きてるんだから、このチャンスをいかに面白くするか。僕は楽しむために生きてると思ってます。

 

―では成功とは何でしょうか?

今言ったように、自分の人生楽しいなと思えたら成功じゃないですかね。社会的成功とかってどうでもいいですよね。社会的に成功してるように見える人でも、満足できなかったり、不満や恐怖心を持ってたり、そういうことは普通にあるわけで。だから成功なんて別にどうでもいいって思うんですけど、自分にとって成功があるとしたら、自分が満足して、人生を楽しめていることじゃないですかね。だから今のところ僕は成功してると思います。

 

―素晴らしいです。最後に、まだ実現していないことでこれから挑戦してみたいことがあれば教えてください。

それは間違いなく、監督として映画を撮りたいです。だから足立さんは本当にすごいなと思うんです、撮りたいと思って撮る。すぐパッとやっちゃうフットワークの軽さ、あの年齢でね。そういう生きざまを学びたいですね。日本は映画の資金が少ないし、チャンスがある人でさえ自分が作りたいものを上手に撮れる人は本当に一部。それに、そんなに撮りたいものでなくても撮らないといけない監督だってたくさんいるでしょう。でも、それでも素晴らしいですよね、僕はそれすらもできていないんだから。環境を整えてとか言ってたらできないでしょうから、いつまでとは言わず、できるだけ早く実現できるよう頑張りたいと思います。

 

古舘寛治 Information

逃走

 ©「逃走」制作プロジェクト2025

2025年3月15日(土)よりユーロスペースほか全国順次公開

 

監督・脚本:足立正生

出演:古舘寛治

杉田雷麟  タモト清嵐 吉岡睦雄 松浦祐也 川瀬陽太 足立智充  中村映里子

遊屋慎太郎 小橋川建 神嶋里花 永瀬未留 さいとうなり 伊島空 東龍之介  神田 青

瓜生和成 宮部純子 大川裕明 小水たいが 浦山佳樹 枝元萌 木村知貴

内田周作 佐藤五郎 岩瀬亮  輝 有子 信太昌之  大谷亮介

 

企画:足立組

エグゼクティブプロデューサー:平野悠 統括プロデュ―サー:小林三四郎

アソシエイトプロデュ―サー:加藤梅造 ラインプロデューサー:藤原恵美子

音楽:大友良英 撮影監督:山崎裕 録音:大竹修二 美術:黒川通利 スタイリスト:網野正和

ヘアメイク:清水美穂 制作:渡辺美穂 編集:蛭田智子 助監督:鎌田義孝 山嵜晋平
スチール:西垣内牧子 題字:赤松陽構造 キャスティング:新井康太 企画協力:寺脇研

宣伝デザイン:100KG 字幕制作:スタンスカンパニー 英語字幕:桜本有三

挿入曲:「DANCING古事記」(山下洋輔トリオ)

【2025年|日本|DCP|5.1ch|114分】(英題:ESCAPE)©「逃走」制作プロジェクト2025

配給・制作:太秦  製作:LOFT CINEMA 太秦 足立組

公式:kirishima-tousou.com

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