—幼い頃はどのような子供でしたか?また、ご両親にはどのような育てられ方をしましたか?
たぶん明るくて喋るほうだったと思います。ごく一般的な家庭でしたが、僕がやりたいと言ったものは、わりとなんでもやらせてくれる両親でした。水泳やテニスなどスポーツもやっていたし、何をやってもわりと器用にできるけど、器用がゆえに、楽しくてものめり込むことは意外となかったかもしれません。
—音楽との最初の出会いは?
最初はよくある町の音楽教室に通ったんですけど、厳しい指導が性格に合わず。その後、小学校1年生の頃、習い事の中でもわりと熱心に取り組んでいた水泳の大会があり、その大会後のヘトヘトな状態のなか、僕の叔父が所属していたアマチュアの社会人ビッグバンドの定期公演に家族に連れられ、初めてジャズを体験しました。コンサートが始まる前は疲労もあり、あまり乗り気ではなかったのですが、当時はジャズを聴く機会なんてなかったし、ビッグバンドの迫力や初めて聴いたジャズがすごく新鮮で心を掴まれてしまい、「やってみたい!!」って思いました。そのタイミングが、後々僕が沢山の人と出会うきっかけになった「札幌ジュニアジャズスクール」という団体の立ち上げの時期と重なり、オーディションを受けることにしました。
—そのタイミングも完璧でしたね。
それまでピアノ以外の楽器に触ったこともなかったのに、そのライブを観てサックスをやりたいと思ったんです。でも楽器自体、高価で簡単に買えるものでもないし、そんな高価な楽器を誰かからお借りするのも恐く、叔父がやっていたトロンボーンだったらあると言われ、結局最初の1年だけはトロンボーンで参加しました。2年目に翌年以降も続けていくと決まったタイミングで、両親にお願いをしてアルトサックスを買ってもらいました。

札幌ジュニアジャズスクール時代
—そんなにサックスが良かったのはなぜですか?
形(笑)。あの機械じみた見た目と雰囲気がすごく好きでしたね。多分幼少期の目立ちたがり屋な性格もあったと思うんですけど、どんどん前に出ていくサックスっていうのもすごく印象的だったのかもしれないです。
—札幌ジュニアジャズスクールは、馬場さんのような将来有望なプレイヤーを養成することが目的の学校ではないと先日知って、驚きました。
そうそう。 札幌市近郊の小中学生が集まって、土日や夏、冬休みを利用しての活動が中心で、一緒に音楽を演奏したり、遊んだり、そういう活動を通してみんなでコミュニケーションを図っていこうみたいな環境だったので、上手くなることを強要されることもなく、練習しろとも言われない。在籍している人数も多いし、僕がこうなったのはたまたまだと思いますよ。あと、そのバンドに同い年でドラマーの石若駿やサックスの寺久保エレナがいたので、一緒に楽しく切磋琢磨してるうちに気付けば、みたいなのもあったかもしれないですね。
—馬場さんが真剣に音楽家を志すようになった転機はいつですか?
僕が中学1年生の時、札幌ジュニアジャズスクールを運営していた団体が、それとは別に、北海道グルーヴキャンプというボストンのバークリー音楽大学とタイアップしたワークショップを開催しました。世界的なトランペッターで教授のタイガー大越さんを筆頭に5、6名の先生を札幌にお招きして、1週間のワークショップを行なったんです。その時に賞をいただいて、バークリーのサマープログラムに参加し、5週間過ごしたことが大きかったです。自分と同世代の人が世界中にたくさんいることに驚いたし、最初は英語も喋れなくてコミュニケーションも取れずにホームシックになっていたんですけど、音楽を通してコミュニケーションをとっているうちに友達も増え、だんだん楽しくなってきて、大学進学も考えるようになりました。

サマープログラムに参加した時の様子
—初めて行ったアメリカで衝撃的だったことはありますか?
ゴキブリがとにかく大きかった(笑)。北海道出身なので、当時ゴキブリって見たことなかったんですよ。オリエンテーションで学校のオフィスに入ると、カウンターに書類が山積みになっていて、その上にすごくユーモアに富んだ文鎮が置いてあるなぁと思っていたら、次に見た瞬間にはもうなくなっていて。「あれがゴキブリ?」ってなったのが最初の衝撃でした。
—それは衝撃ですね(笑)。
真面目な話だと、僕はそれまで自分の周りでジャズをやっている人が僕の音楽経験の全てで、東京に行くこともなかったので、いざアメリカに行くと自分より上手くてやばい同世代の人達が世界中からたくさん集まっていて、圧倒されました。特に最初15歳でサマースクールに参加した年は、音楽の勉強をすごくしていたわけでもないし、ミュージシャンになりたかったわけでもないまま参加したので、みんなの練習量の多さに驚きました。初めて世界っていうものを意識した瞬間かもしれないです。
—大学入学までに、ボストンに行くことを何回か繰り返されたんですか?
夏の間だけですけど、その5週間のプログラムの間に、次の年の5週間の授業料を免除にするための任意のオーディションみたいなのがあって、合格して来年も参加するというのを、中学3年生から高校3年生の夏まで結局4回行きました。夏の5週間だけとはいえ、授業料が全額免除にならないと参加できないくらいの金額だったので、ここで落ちたら大学は途切れると思い、オーディションは毎年入試を受けるような気持ちで臨んでいました。結局は大学にも合格しましたが、毎年授業料免除でも生活費や渡航費など色々お金はかかるので、親は大変だったと思います。足向けて寝られないです。
—大学入学後も競争は続くのですか?
めちゃめちゃ競争社会だったと思います。大学の授業を取るのも、人気のある有名な先生は全部オーディション制ですし、バンドを作って学校内でライブをやったり、学校が派遣してフェスに出演するのも、学校内で目立ってないと声がかかってこない。だから、「あいつは売れっ子だからスケジュールおさえるのが大変」とかいう話を学生の間で常にしていましたね。

—その環境はストレスでした? それともやっぱり楽しかったのですか?
両方ですね。もちろん大変だなと思う瞬間もあるけど、 ありがたいことにオーディションのあるアンサンブルにも参加できたし、先生との距離も近くて、授業がない日でもクラスに遊びに行って混ぜてもらったりして。同級生はいろんな国の人がいて、みんなでご飯を食べる時に「やっぱイタリア人はパスタ作るの上手いな」みたいな日常も楽しかったですね。
—当時の仲間で今も一緒に仕事されている方はいますか?
僕の同期の小田桐和寛っていうドラマーは、つい先日も一緒にライブをしたり、 最新アルバム「ELECTRIC RIDER」のドラマー、JK Kimは韓国出身のバークリーの同期ですね。昔から知ってるし、二人とも卒業してニューヨークに住んでいたので、よく遊んでいました。他にも海外の公演などでばったり大学の友達に会って演奏したり、遊んだり、今でも沢山の世界中の友達と繋がっています。
—学生時代に挫折を経験したことはありますか?
挫折というか、大学2年目か3年目の頃、いろいろ悩んでいた時期はありました。というのも、ジャズの本場であるアメリカには憧れのプレイヤーも多いし、日本のジャズシーンとは全く違う世界があると思っていたのに、市場規模の違いはあれど、実際に来てみたらわりと似ていて、メインストリームはいわゆるジャズとはちょっと違うところにあって、みんな日本と同じような悩みも抱えていたりして。それで、本当に自分はジャズをやりたいのかを自問自答していました。そこで、大学の授業は出ていたものの、外のライブ活動は一旦全部やめて、他に目を向けるようになったんです。友人が運営していたファッションマガジンのモデルをしたこともありますし、特に興味があったのが、ファッションショーの音楽とか、シルク・ドゥ・ソレイユみたいな総合芸術の中の音楽。ただライブで鑑賞するだけではない音楽のあり方みたいなものにとても興味が湧いて、ジャズ以外もすごく聴くようになりました。それで、自分は今までミュージシャンとして演奏することだけを考えていたけれど、実際は何かもっといろんな形で音楽をやるのもありなのかもと思えるようになって、そこからまたいろいろやる気が出てきました。

—ニューヨーク時代のお話も伺いたいです。卒業後は、すぐにニューヨークに行かれたのですか?
行きましたね。卒業する時に、サンフランシスコの名門インスティチュートにトライするか、ニューヨークに行くかの選択肢があったんですけど、やはり自分は演奏家としてだけ活動するよりも、様々なジャンルのアーティストがいて、いろんな形のアートシーンがあるニューヨークに身を置いて活動するほうが魅力的なんじゃないかなと思って、ニューヨークに行くことを決めました。それと同時に、ミュージシャンとして知名度や実力がないと、コラボレーションのオファーなんて来るわけないなと思って、ミュージシャンとしての活動をしっかりしようと必死でしたね。
—ニューヨークでは、ミュージシャンとしてすぐに生活できるものなんですか?
いえ、お金はまったくなかったです。毎日セッションに行ってもすぐに仕事は入ってこないから、レストランや路上でも演奏してました。下積みというか、色んなところに顔を出して覚えてもらってという活動も必要だったし、演奏してもいつもギャラがいいわけではないし、だからと言って数少ないギャラで生計立てようと思ったら、もっと仕事数増やさないと絶対無理やし。ニューヨークって大体よく言われている都市伝説として、仕事が回り出すのに5年から10年は絶対かかるって言われてて。
—都市伝説ですか。
そうですね。“ニューヨーク10年説”という、10年超えてようやく自分の名前を知ってもらえて、いろんな仕事が回ってくるっていう説があるんです。みんな自分を守るので必死だから、簡単に誰かに仕事をあげたりしないんですよ。それにホーンプレイヤーって、例えばレストランのBGMにも特に要らないんですよね。ピアノだったらソロでもデュオでもトリオでもいけるけど、サックスとかトランペットって結構プラスアルファのものだから、結局僕らがリーダーにならないと、なかなか回っていかないなっていうのはすごく感じてましたね。

ニューヨークで活動していた頃
—音楽以外のアルバイトもしていたんですか。
しました。自分がリーダーとしてどういうことができるかっていうのを世間に示さないと、アーティストとしての価値がわかってもらえないと思って、とにかく1回アルバムを作ろうと思ったんです。そのためにはお金が必要だから、週3だけ割り切って日本食のお店でサーバーのバイトをしました。それ以外の日は、ジャムセッションに参加したり、いろんな音楽を聴きに行って、贅沢はしないようにして暮らしていました。あと、ニューヨークに移ってすぐの頃、声をかけてもらってJ-Squadのメンバーに入れてもらえたことはありがたかったです。
—帰国したきっかけは、コロナですか?
がっつりコロナですね。ニューヨークがロックダウンするっていう直前に、黒田(卓也)さんと遊んでて、なんかニューヨークロックダウンするらしいみたいな話になって、「俺は明後日ぐらいに帰るわ」って言われて、「嘘でしょ!じゃあ僕も帰ります!」という流れで、ロックダウン3日前にギリギリに帰りました。元々帰国するつもりもなかったし、とりあえずコロナの間だけ帰ろうと思っていたので、こんなに日本が長くなるとは思わなかったです。
—今、日本に戻ってきてから4年ぐらい経ちますが、その間、日本で馬場さんがブレイクスルーしたきっかけとなる出来事はありましたか?
まず日本に帰国して最初の大きな機会は、LOVE SUPREME JAZZ FESTIVALで、DREAMS COME TRUEのお二人と、上原ひろみさん(pf)と、古川昌義さん(gt)とクリス・コールマンさん(ds)と共演をしたこと。沢山の人に覚えてもらったり、出逢う機会になりました。あとはやっぱり映画「BLUE GIANT」じゃないですかね。アーティストとして自分の意識も変わっていったのかなという気はします。それと、日本に帰ってくるんだったら、ジャズクラブで演奏するだけではなく活動のスタイルをちょっと変えようと思っていたし、一人のアーティストとして確立したものをやりたいと思っていたので、毎回メンバーが変わるセッションのような仕事より、バントとして活動するプロジェクトを優先しているのもあるかもしれないです。
—ところで、BLUE GIANTを拝見した時に馬場さんの当て書きなのかと錯覚したのですが、モデルではないんですよね。
モデルじゃないです。でも、僕とドラマーの石若駿との関係性は、映画の中の宮本と玉田の二人とわりと似てると思います。
—馬場さんも宮本のようにずっと練習していたんですか?
北海道の河川敷で練習をしたら楽器が壊れるので、もちろんそれはしなかったです。でも高校や大学の時は、学校から帰ってきてそのままスタジオに行って、夜ずっとやっていたし、大学の時はそれこそ練習室に入ってずっとやってましたよね。
—では、馬場さんにとってジャズって何ですか?
ジャズ、なんだろう。難しいですね。僕はジャズ以外の仕事もするし、新しい作品もいわゆるジャズではないんですけど、自分にとって木の幹になるところはジャズかなとは思いますね。かっこ良いか悪いかとか、面白いか面白くないかとかの判断基準も、僕にとっての軸はジャズだと思います。それに、ジャズを始めて20数年経ちますけど、未だにわからないことも多いし、できないことも多くて、年を取れば取るほど気づくことも多いだろうし、ジャズはずっと研究できる題材だなと思ってます。今はフィジカル的にも若いんで、早弾きとかテクニックの部分もいろいろできたりするけど、レジェンドの人を見ると、フィジカルのカッコ良さだけではなく、そうじゃないところですごく説得力がある音楽をやってるので、年とともに深みが出てくるような気はしてます。
—憧れてる人、尊敬してる人はいらっしゃいますか?
プレイヤーとして誰かに憧れることはもうないです。大学時代に教授が、「人に憧れる以上に自分がどんなアーティストなのかをしっかり考えなさい、学校を卒業したらみんなライバルだよ」みたいな話をしていて、なるほどなと思って、それ以来そういう考えはなくなりました。ただ、憧れとはまた違いますけど、黒田卓也さんは、日本人のホーンプレイヤーで世界で名前が挙がるアーティストという点で、僕にとってひとつの指標かもしれないです。彼は僕のちょうど一回り上なんですけど、 ファーストアルバムを作る時のメンバー選びに悩んでいた時にアドバイスをもらったり、彼の活動を見て自分はこうしようかなとか考えたり、ヨーロッパでの活動なども含めて自分のやりたいことを今やっていたりするので、勝手に参考にさせてもらっています。
—音楽以外で好きなことや、音楽以外に興味があることはありますか?
洋服やお酒、車も好きです。洋服に関しては、いろんな仕事に繋げられたらなと思って、アルバムを作ったタイミングで初めてグッズも作ったんですよ。多分いろんなものが音楽を作る時のインスピレーションになっていくと思うし、かっこいいものを知っておくのはすごく必要なことだと思う。音楽もファッションも色んなカルチャーは時代毎にリンクしているし、時代を象徴していると思うので。
—今、日本のジャズシーンが、昔と明らかに違う気がしています。ジャズというカテゴリーさえも曖昧になっているような感じで、これから何か面白いムーブメントが起きていくんじゃないかとワクワクしているのですが、馬場さんがご自身で新しい風を感じるような、火がつき始めたような感覚はお持ちですか?
そうですね。僕の周りで言うと、それこそ石若駿ともよく話しますけど、今までの日本のジャズシーンのお客さんって、昔のジャズブームの時に、例えば日野皓正さんの同世代とか、その下の世代の人たちがかっこいいって感じて出来たファン層だと思うんですよ。だから僕や駿も、2、30代の皆さんにも音楽を届けたいと思っているし、ちょうどBLUE GIANTの影響もあって、今までジャズを聞いてこなかった若者たちのジャズへのハードルがすごく下がってきているのを感じています。 今ようやく、「僕らの世代も音楽シーンを作ります」っていうのを、みんなが言い出せる時代が来たんじゃないかなと思います。
—とても楽しみです。ところでライブの時のマインドセットなど、必ずしていることはありますか?
僕は程よい緊張をするように、ライブ前にどこかのタイミングで一人になるようにしてます。今一緒に仕事してる仲間が、楽しくて仲良い人たちが多いので、慣れてくるとライブの前に緊張感がなくなったりして、 切り替わりがあんまりうまくできないんです。だからスイッチをオンにするための手段として、一人になることは意識しています。

—では、今社会で起こってることで気になることはありますか?
いっぱいあるんじゃないですか。世界で起きている戦争も気になりますよね。もちろんウクライナやロシア、イスラエルとかもそうですけど、僕はそういう国出身の友達とかがいるわけで、リアルに政治状況によってツアーができなくなることもある。日本人は良くも悪くも、戦争に対しても人種差別に関しても、意外と実感ない気がします。 海外に住んでいると、例えば差別を目の当たりにするし、そもそも僕らアジア人も差別の対象ですし、そういうことをリアルに体験しているから、今も世界で起きていることはすごく気になりますよね。
—馬場さんご自身がやられてることで、日本や世界が変えられるとしたら何だと思いますか?
音楽に関しては、それをしたいなと思って常にやってます。音楽シーンに一石を投じるぐらいかもしれないけど、僕らの音楽が日本のシーン、しいては世界のシーンを面白くできるんじゃないかなと思って今回のアルバムも作りましたし、そうするための動きを、僕のチームや仲間達とみんなでしたいと思ってます。あとは、過去に日本を拠点に海外でもしっかり活動してる人って、どの音楽ジャンルでもほぼいないので、例えば僕が日本から海外にもっと出て行って、いろんな人たちとコラボしたりしだしたら、海外から見た日本のシーンもすごく変わるんじゃないかなと思うんです。今、世界ではジャズシーンについて語る時に、ニューヨーク、LA、UKのシーンは語られるけど、日本のジャズシーンは語られない。だから、この中にしっかり日本が入ってくるようにしたいなって思います。
—では、馬場さんにとってチャンスとは何ですか?
僕にとってチャンスは多分どこにでもあって、自分がチャンスだと思えばチャンスです。僕が今までスムーズに活動を続けてこられているのは、そのチャンスをどこかで掴んでいたのかもしれないですし、僕自身、縁と運にはすごく恵まれてると思います。あとは、僕らみたいな仕事って、常日頃からどれだけ準備ができてるかが大事だと思うんです。例えばスポーツ選手みたいに、オリンピックとかワールドカップっていう大きな舞台があるわけでもないですし、日常の1個1個がすごく大事だと思ってるので、そこにちゃんと迎え撃てる準備をして、変なボール玉が来てもホームランを打てたらいいなと。なので、チャンスは自分で作れるのかなと思ってます。
—それでは、馬場さんにとって成功とは何ですか?
成功って、本人は決められないし、周りが「あいつ成功してるな」とか思うものだと思うんです。ただ、成功と聞いて思い出すのが、昔、高校生の時に聴いたRADWIMPSさんの「僕はきっと今誰かの夢の上に立っている」という歌詞があって、だからもしかしたら今僕がやってることは、誰かにとっての憧れなのかもしれないし、そうだったら嬉しいなと思います。でも自分にとっては、やりたいとか、面白いな、好きだなって思えることをずっと続けていけることが成功に近いのかもしれないです。大きい成功もそうですけど、目の前にあることを一つ一つ積み重ねて、最後に楽しかったなって思えればいいなと思いますし、あんまり気にせず、でも期待に楽しく応えていけたら嬉しいなと思ってます。
—最後に、まだ実現していないことで絶対にやろうと思っていることはありますか?
いっぱいありますけど、とにかく自分のバンドでまず世界ツアーに行きたいですね。あとは、その先にまた新しく何かやりたいことが出てくると思うんで、その時にまた考えていこうかなって思っています。
取材協力:No Room For Squares
東京都世田谷区北沢2丁目1−7 ハウジング北沢ビル2 4F Ⅱ