在日58年の、ベテランフランス人事業家が振り返る1964年東京オリンピックと、新たに誕生したコスモポリタンな東京の街

2021/08/24

新型コロナウイルスの緊急事態宣言下で開催された東京オリンピック、感染拡大が続く中、不安や懸念の声もあったが、多くの人々に感動を与え無事に幕を閉じた。今日から東京パラリンピックがスタートする。今回は、1964年に行われた東京オリンピックの様子を知る一人のフランス人を紹介したい。来日58年目となる、現役フランス人事業家のイヴ・ガスケール氏だ。

彼は、駐日フランス大使館広報領事官のアシスタントやジャーナリストの仕事を経て、1974年にコンサルティング会社PMCを東京で創立し、フランスの大手デパートであるプランタンの日本進出や、マリ・クレールのライセンス事業、アニエスべー・ジャポンの設立などに関わった。意外かもしれないが、在日フランス人コミュニティ(現在日フランス人の人口は全国で1万5千人未満、その半分は東京に住む)はそれほど大きくなく、長年日本に住み続ける人はさらに少なくなる。シャネル・ジャポンの元社長リシャール・コラス氏で在日40年、日仏歴史学者で実業家のクリスチャン・ポラック氏は50年。ガスケール氏の初来日は、およそ70年前に遡る。

パリのエリート国立高等学校であるリセ・ラヴォアジエに通っていた彼は、柔道や電気製品マニアだったため、日本に憧れを抱いていた。そして1955年7月、12歳にして3ヶ月間の長い夏休みにパリを旅立ち、日本へ向かう。「母のジャニーヌは、1950年代前半に、初のエールフランス日本支局の会計士に抜擢されたため、私も一緒に50年代後半から60年代前半まで、夏休みの多くを日本で過ごしました。当時母が務めていたエールフランス東京本社は、日比谷の日活国際会館内(現ペニンシュラ東京)にあり、隣の新橋付近の道路は土でできていて、人力車が芸者を運んでいたのを覚えています。戦後で街はまだ混沌としていましたが、新橋や赤坂、銀座の料亭を出入りする芸者と舞妓たちのエキゾチックな風景、また、下町の屋台や街の活気などにも魅了されました」。

1955年、初来日した時。母と。写真中は当時の新橋の街

その後、ガスケール氏は高校を卒業し、パリでビジネススクールに通いながら、東洋言語文化学院大学で日本語を学んだ。そして1963年、二十歳の時に日仏貿易会社ソシエテ・オリビエでアルバイトをするようになり、社長のピエール・マルタンの運転手やアシスタントを務めたことがきっかけで、東京オリンピックの仕事の話が舞い込む。「フランスの全国紙『ル・フィガロ』のスポーツ記者がカメラマンと一緒に来日したのですが、彼らにアシスタントが必要となり、私にその仕事が巡ってきたのです」。

オリンピックが決まり、急速に変化を遂げた東京。当時と今の街の状況に重なるものもあると言う。「初めて日本でオリンピックが開催されるとなって、東京の街は様変わりして、ものすごく賑わっていました。ですが、毎晩22時になると一気に静かになるのも印象的でした。外国人関係者や選手の過剰な盛り上がりを恐れていた大会側は、飲食店を強制的に閉め、大抵のホテルも門限があったんです。当時と今と、東京の街はほぼ同じ状況に置かれているように感じます」。そう語るガスケール氏に、数々の記憶が蘇る。

「その頃カラーのテレビはまだとても高くて、人々は都内の電気屋さんのショーウインドーでオリンピックのハイライトを観ていました。開会式の昭和天皇のスピーチや、超満員の国立競技場、各国の選手たちの登場などに、みんな感動していました。特に記憶に残るのは、ブルーインパルスですね」。航空自衛隊のブルーインパルスは開会式のためにスタジアム上空を飛行し、煙で五輪を描いたのだ。

ガスケール氏は『ル・フィガロ』の記者のアシスタントとして、彼らの通訳や運転をしたり、カメラマンが撮影したフィルムを毎日羽田空港まで運び、パリ行きのエールフランス便に乗せるという大役も務めた。また、急遽フランスの写真週刊誌『パリ・マッチ』のコーディネーターにも抜擢され、取材に同行することになる。「彼らはフランス人の知らない東洋、とりわけ東京の風変わりな文化をスクープしたかったのです。新宿が夜の街としてブームになったのは70年代で、当時はまだ昼間に取材できる繁華街は少なかった。一方、ラブホテルの文化が大阪から東京にやってきて、目黒川沿いのホテル(現目黒エンペラー)に行ったのは強く印象に残っています。当然、ラブホテルは西洋になかったコンセプトですからね」。

大会後半はフランス代表の選手たちが泊まる神宮の選手村や、半蔵門のホテルに宿泊していたフランスのVIPや関係者と共に多くの時間を過ごした。元世界的な登山家(史上最初の8000m峰アンナプルナの登頂に成功)で、当時フランスのスポーツ大臣だったモーリス・エルゾーグ氏や、唯一の金メダリストとなった馬術競技のピエール・ジョンケール選手もいた。「大臣とジョンケール選手が大喧嘩するのを目撃したことは、未だに記憶に新しいです。フランス政府はジョンケール選手の馬の交通費を払いたくなく、ジョンケール選手は自分で負担しました。しかし、その馬がフランス代表団に唯一の金メダルをもたらしたので、本人は真っ先に大臣に文句を言いに行ったのです。個性的な二人でしたから、殴り合いまでヒートアップするのではとみんなが恐れていました」。

左:1964年東京オリンピックのメディアパス 中:神宮外苑の選手村 右:当時はまだオフィシャルにリリースされたグッズはなく、唯一あったのは切手だった

他にも脳裏に焼き付いている名シーンをいくつか話してくれた。「駒沢オリンピック公園で行われた女子バレーボールの日本対ソ連の決勝は、まるでロックスターのコンサートのような盛り上がりを見せていました。それと、陸上男子100mに出場したボブ・ヘイズ選手は本当に大きかった。当時は身長が180cmでも、とても珍しかったんですよ。彼が大会後にアメフトのスーパースターになったのも納得でした」。また、エチオピアのマラソン王者、アベベ・ビキラ選手が放つ存在感も素晴らしかった。「アベベ選手がスタジアムに一人で入ってきた時、7万人もの観客からすごい歓声が上がって、鳥肌が立ちました。ローマ大会同様に素足で現れるかなと期待していましたが、その時はちゃんとランニンングシューズを履いていましたね(笑)」。

大会のクライマックスは閉会式の前日、武道館で行われた男子柔道無差別級のアントン・ヘーシンク選手対神永昭夫選手の決勝。「日本はまだ五輪柔道において無敗で、オランダの巨人(198cm)と言われるヘーシンク選手が神永選手を破った時、武道館はとんでもない沈黙となりました。オランダ王室の皇太子だけが大きく拍手し、少しして日本の皇太子と皇太子妃が静かに拍手をしたのです」。

そうして3週間の東京オリンピックでの仕事を無事終えることとなったが、大会中に築いた意外な友情についても教えてくれた。「ソ連圏のアスリートを監視する秘密警察が、運転手役になりすましていました。公にはしていませんでしたが、特殊部隊の体つきと表情をしていたので、すぐにわかりました。同じ駐車場で、彼はソ連大使を、私はフィガロの記者たちを待つことが多くあったんです。若造の私と秘密警察の彼が隣合わせで、誰もいない駐車場で待っているシーン、想像できますか?(笑)。非日常的な時間でした」。

1964年東京オリンピックは近代日本に何をもたらしたのか、ガスケール氏の持論は教科書に書いてある歴史とは少し異なる。「1960年代後半まで、日本はまだ発展途上でした。高速は羽田に行く道一つしかなかったですし、東京の大通りの道は狭く、路面電車(トラム)や道路工事のせいで大変な渋滞をしていました。本当の高度成長は1970年代。そこから一気に街は変わりました」。

実はガスケール氏は1965年に兵役のため一時期フランスに戻っているのだが、その3年後に受けたフランス外務省の東洋地域外交官試験(コンクール・ドリアン)に合格し、外交官になる。駐日フランス大使館の広報部に採用され、再び日本に戻り、そこからおよそ7年間、広報領事官のアシスタントとして難しい政治問題を扱う多忙な日々を送った。「フランスは南大西洋で核実験を繰り返していただけに、私たちは広島知事や長崎知事と話し合いをし、お詫びをしなければなりませんでした。今のように、ワインや高級ブランド、映画と観光大国のイメージ、その人気からはほど遠い時代だったんです」。唯一楽しかった仕事は1970年代の大阪万博だったと、当時を振り返る。

その後、74年にフランス大使館を辞め、自身のコンサルティング会社、PMCを設立。「若いビジネスマンとして、日本のクライアントに案内された東京のナイトライフを今も覚えています。当時は有名なナイトクラブは六本木ではなく、赤坂にありました。私たちがよく行っていたMUGEN赤坂には、若かりし頃のISSEY MIYAKE氏や山本寛斎氏も来ていました」。また、日本初の本格的フランス料理店として当時銀座にオープンした「Maxims-de-Paris」は、富裕層や若いモデルたちで賑わっていた。「龍村美術織物の龍村兄弟が京都からポルシェでやって来て、どこにも負けないエレガンスとクールさを醸し出していました。男女問わず、みんながオープンで、私に英語で声をかけてくることも頻繁にありました」。

PMCを設立した頃のガスケール氏(1974年)

「昔のほうが東京の人は海外文化への好奇心があり、コスモポリタンな日本の姿を夢見ていたように思います」と、ガスケール氏は言う。「勢いのある東京文化を築いたのは、1970年代と1980年代の日本人。そんな彼らに自信を与えたのは、1964年東京オリンピックなんでしょう」。今の日本人は、その時代から学べることが多くあるにきっと違いない。

Interview & Text: Dabadie Florent