タイを代表するヒップホップグループ、タイタニアムのプロデューサー・カンの、半生のアップダウンを通して得た学びと今後の夢【インタビュー】

2019/12/22

タイでヒップホップのシーンを築いたグループ「Thaitanium(タイタニアム)」のプロデューサーとして多くのヒット曲を生み出してきたKHAN(カン)。先月、INLYTEでは同グループの元メンバーであるラッパーのDaBoyWayを紹介したが、今回はタイタニアムの名付け親でもあるカンのインタビューを届けたい。

子供の頃から両親がバーを経営していたこともあり、生の音楽にたくさん触れてきたと言うカン。そんな彼がヒップホップを知ったのは、スケボーのビデオを通してだった。その後、留学した先のアメリカでは、辛く悔しい経験をし、ヒップホップは心の大きな拠り所となる。そしてDJにハマり、技術を磨いて様々な場所で活躍を重ねるようになった。タイに戻ると、レコードレーベルと契約をするも、自分の表現したい音楽はなかなか受け入れられず、悩んだ時期も長かったが、諦めず模索し続け、友人と築いたグループ・タイタニアムはタイにヒップホップ旋風を巻き起こし、シーンの頂点に上り詰めた。

タイタニアム以外の活動でも、他のアーティストのプロデュースを手がけたり、テレビ番組の司会をしたりと忙しい毎日を送るカンに、幼少期の頃からアメリカの留学時代の話、DJとの出会い、音楽以外の仕事について、若者に向けてのアドバイスなどを聞いた。

人生は短いから、今を楽しむことが大事。どんな状況もありのまま受け入れて、いつもベストを尽くして、自分が思う成功のレベルに達せるように努力し続ける

―生まれ育ちはどこで、どんな子供時代を過ごしましたか?

バンコクで生まれて、13歳までここで育った。子供の頃は、色々やってはみるけど、自分が好きじゃないものには全く興味を示さないタイプだったね。自分なりの反抗精神を持っていたからかもしれない。両親が家の前にバーを経営していたからよく遊びに行って、ご飯を食べながらバンドの演奏を聴いたりしてた。それで音楽が大好きになって、学校から帰ってくるとバーに忍び込んで、ドラムを叩いたり、ギターを弾くようになったんだ。

―それが音楽への入り口だったんですね。他に何か好きだったことはありましたか?

スケボーだね。スケボーのビデオをよく観ていたんだけど、後ろで流れているヒップホップを聴いて、反抗的な感じがすごいいいなって思った。その後、13歳の時に、あまり学校が好きじゃない僕を見かねた母が、アメリカに行きたいか聞いてきた。僕の父はアメリカ育ちで、母はオーストラリア育ち。二人とも西洋的な考え方を持っていて、僕にもっとリアルな世界を知った方がいいって思ったらしい。もちろん僕は、「スケボーの聖地、アメリカに行ける!」って行くことにしたよ。

ーなるほど。ちなみにカンさんはご兄弟はいるんですか?

兄がいて、彼はすでにアメリカ留学をしていたんだ。それで、僕は両親に連れられて、シカゴ、LA、フロリダ、ニューヨークと周って、最終的に着いたのはカンザス州のアティシンという街だった。当時はグーグルマップもないし、「ここはどこ?」って感じで。本当に何もない所で、人口3000人くらいの、二つのガソリンスタンドと、一軒のチャイニーズレストランくらいしかない小さな街だった。

―なぜカンザス州の学校だったのですか?

叔父が近くの学校に通っていたからね。何かあれば助けてくれたり、週末には遊びに連れて行ってくれたりしたよ。

―学校生活はどうでしたか?

世界中から色んな人種の子供達が来ていて、問題児が多かったけど、アジア人、メキシコ人、アメリカ人でも黒人は差別されて、白人は僕たちと一緒にハングアウトしようとはしなかった。タイでは外国から来た人がいたらファミリーのように優しく接していたけど、アメリカで自分はゴミのように、マイノリティとして扱われて、アメリカの実態を体感した。街を歩いている時には、石や缶を投げつけられたり、「中国人は家に帰れ」なんて言われたこともあったよ。

―辛い体験をされたんですね。

うん。そんな辛い時を支えてくれたのがヒップホップだった。当時聴いてたパブリック・エネミーの「Fight the power」なんて、まさに俺のメッセージだ!と思ったよ。それで、ヒップホップにどハマりして、ヒップホップの4つの要素と言われるラップ、ブレイクダンス、グラフィティ、DJと、全てトライした。どれもまあまあできたけど、特にDJにハマったんだ。当時のヒップホップは、DJはとても重要な役割を果たしていたし、その頃僕は英語があまり話せなかったから、DJは話さなくていいしちょうどいいやって、それでDJをすることにした。

―DJを始めたのは何歳の頃?

14歳の頃だね。YoMTVでプレイするDJ達を観て、Technics 200を欲しいって思った。親にすぐ買ってもらえるような状況ではなかったし、学校の友達でターンテーブルを持ってる子に使わせてもらって、レコードをスクラッチしたのをテープに録音したり、安いミキサーを買って、CDをミキシングもせずにテープに録音したりした。当時はビデオも何もなかったし、自分でやりながら試行錯誤してたよ。そんな時、父親が亡くなったんだ。とてもショックだったし、父の死を通して、永遠なものって何もないんだって思った。それで、僕が住んでいたカンザスは人種差別がひどいし、僕がやりたいことを理解してくれる人が少ないから、母に頼んでカリフォルニアに引っ越すことにした。

―そうだったんですね。サンフランシスコではどんな生活を送っていたんですか?

相変わらずスケボーと音楽にハマってたよ。16歳の誕生日に、母から為になるものを買いなさいともらったお金に、自分のお小遣いを足して、Technics 200を買った。やっと手に入れられてすごい嬉しかったよ。でも、母はまさか僕がターンテーブルを買うと思ってなかったみたいで、すごく怒られた。その時、「絶対にDJとして成功してみせる!」って決めたんだ。それが僕のキャリアの始まりだよ。

―影響を受けたアーティストは誰かいましたか?

たくさんいるけど、ターミネーターX、マジック・マイク、ジャン・マスターJ、キュー・バートとかだね。キュー・バートが世界チャンピオンになったのを見て、彼みたいになりたいと思った。それでDJバトルを始めたり、学校のダンスパーティーとか友達の誕生日パーティーでDJをするようになって、だんだんと名前が知られるようになった。そのうち、曲のプロデュースに興味を持ち始めて、貯めたお金でキーボードサンプラーを買って、今のタイタニアムのメンバーであるデイと曲を作るようになったんだ。

―タイではいつ頃から活躍するようになったんですか?

毎年夏にはタイに帰国していて、93年に帰った時に、初めてヒップホップパーティーを開いた。客のほとんどが、ターンテーブルでDJするのを観たことがない人達だったから、みんな僕がDJするのを見て驚いてたね。それから契約できるレコードレーベルを探していて、17歳の時に、Tというアーティストと、Khan & Tとしてソニーと契約することができた。でも、僕自身も曲作りはまだ慣れてなかったし、プロデューサーもヒップホップを知らない人だったから、僕たちが求める音を作れなかったんだ。それで一旦アメリカに戻って高校を卒業して、その後タイに戻ってしばらくしてMusic Xというインディレーベルと契約した。

―そこでは、カンさんが思っていたようなヒップホップをやることができたんですか?

いや、そこで求められたものも、聴きやすいポップ寄りなヒップホップだった。最初のアルバムは8万枚くらいしか売れなかったけど、2枚目を流行りのダンスミュージック寄りのラップにしたら、すごいヒットして25万枚売れたんだ。それでタイ全国をツアーして、テレビのゲーム(クイズ)番組に出たりするようになった。当時はクイズ番組に出るのがアーティストとして有名になる手段の一つで、僕も世間に顔が知られるようになった。

―そうなんですね。他にはどのような仕事をされていたんですか?

昼のドラマに出たり、スポーツイベントのMCをしたりしたね。おかげで有名にはなったけど、音楽の仕事ではない方が多くなってきて、僕はあまりハッピーではなかった。その後、GMMというタイで一番大きなレーベルとソロ契約をして、ますます売れて、「Chu Wap」という曲はタイで最も売れた曲になった。自分が好きで作るものは求められず、好きじゃないものは売れて、どうすればいいかわからなくなってしまった。

―確かにそれは迷うし、辛いですね。

そんな時、ニューヨークに7888というレコーディングスタジオを持つ人と会う機会があって、僕が作ったアングラの曲を聴いてもらったら、すごくいいと言ってくれた。それで僕はお金を貯めてニューヨークに行こうと決めたんだ。GMMの人にはニューヨークの学校に行って、スタジオレコーディングを勉強してくると嘘をついてね(笑)。

―そうしてニューヨークでの生活が始まったんですね。

うん。ニューヨークは物価が高いからすぐに貯金が尽きて貧乏だったけど、全く気にならなかったし、毎日がとても楽しかった。そのうち、そのスタジオで働くことになったんだけど、90年代のヒップホップアーティストがたくさん来たよ。ブラック・ムーンや、スミフン・ウェッスンとかの曲作りに携われて夢のようだったし、ブラーゼイ・ブラーゼイとはすごく仲良くなって、いろいろ教えてもらったりした。

―ご自身の活動としては、どうされたんですか?

サンフランシスコからの友人、デイ(Day)と、タイで知り合ったウェイ(DaBoWay)とタイタニアムを組んで、8曲のepを作った。それを持ってタイに行ったらみんなCDを欲しがって、売り出したんだ。彼らの反応を見て、みんなリアルなヒップホップを聴いたことなかっただけで、本当はアングラなサウンドも好きなのがわかった。それでアメリカに戻ってから、持ってるお金を全部つぎ込んで、アルバムを作った。そうしてやっと僕が本当にやりたかったことを実現できるようになったんだ。

―カンさんが曲を作る際に、一番大事にしていることはどんなことですか?

他のアーティストのプロデュースをする時は、そのアーティストに合ったものを作るし、もちろん新しいことに常にチャレンジしてるよ。自分のために作る時は、もっとポエティックで、深いメッセージを持った、僕のアイドルであるボブ・マーリーのように、多くの人々へのインスピレーションとなるような音楽を作りたいと思っている。

―ラップは今でもしますか?

2、3年前にタイタニアムが出したアルバム「NOW」では結構ラップしたね。今はプロデュースの方が多い。忙しくて自分の音楽を作る時間があまりないんだけど、年を取りすぎる前に作りたいと思ってるよ。

―何歳くらいまでに?

50歳まで。7年後だね。

―ということは、、若く見えますね!

お酒はよく飲むけど、食べるものにも気をつけて、走ったりして、健康に気をつけるようにしてる。あとは、若いキッズ達と一緒に時間を過ごしたり、見た目にも気を遣ってる。

―それでは、最近のタイのヒップホップシーンをどのように見ていますか?

シーンはこれまでも盛り上がったり、落ち着いたりとアップダウンはあったけど、今ではヒップホップがタイで一番人気だね。去年始まった僕とJoey Boyがジャッジを務める番組「The Rapper」も人気だよ。来年からシーズン3が始まる。

―音楽のプロデュース、テレビ番組の司会以外に、他にはどんなことをされてきたんですか?

過去にクラブやレストランをオープンしたりして、うまくいったものもあるけど、うまくいかないものの方が多かったな。2008年には、バンコクで初のアジアヒップホップフェスティバルを開催した。ナズがヘッドライナーで、日本からはジブラ、台湾からMC HotDog、香港から24Herbs、マレーシアからJoe Flizzow(ジョー・フリゾウ)とか、全部で8ヶ国のラッパーに出演してもらったんだ。客はたくさん来たけど、みんなあまりお金を持ってないから、赤字に終わってしまった。またやりたいとは思うけど、今はいろんな人がヒップホップやEDMのイベントをやっているし、ショービジネスはタフだよね。

―この間はカンさんがプロデュースを手がけているTwopee(トゥーピー)とアメリカでツアーをされてましたね。

うん、4都市回ったよ。ニューヨークは他のキャストとダブルブッキングされてキャンセルになってしまったけど、全体的に良かったね。

LAでのライブの模様

―では、タイの新人アーティストで、カンさんのオススメを教えてください。

たくさんいるけど、ヒップホップでは、Young Ohm(ヤング・オーム)。彼は若手で今一番人気があるよ。あとはTwopee、彼は少し上の世代になるけど、ベストラッパーの一人だね。他にはMeyou(ミュー)というアーティストで、彼はソウルシンガーだけどヒップホップバイブがある。

―ところで、いつも忙しいと思いますが、オフの時は何をしていますか?

いつも仕事してるね。他のアーティストや自分の曲を考えたり、フェスでかける曲のリストを考えたり。たまに自分を半ば強制的に止めて、「一本だけ観ることを許す。それが終わったら仕事に戻るんだぞ」って映画を観たりすることはあるけど(笑)。あとは外に出かけて、知り合いと情報交換したり、ショーやコンサートに行って、今何が流行ってるのかをチェックしたり。そんな感じで、仕事と遊びは切り離せない状態だね。

―では、バンコクでオススメの場所を3つ教えてください。

カオサン通り(Khao San Road)。世界中からバックパッカーが集まる場所で、自由なバイブが好きなんだ。忙しいからなかなか行けないけど、たまに行った時にはいろんな人と話したりする。あとは、「Chill in da huse」という、僕がHoktという札幌に住むラッパーの友達と一緒にやってるバー。小さいけど、リラックスできるからオススメだよ。あとは川沿いにあるサラ(Sara)。観光客に人気のスポットだけど、タイっぽい雰囲気が残されていてすごく平和な場所なんだ。

―旅行はよくしますか?どこか好きな都市はありますか?

そんなにたくさんではないけど、毎年行ったことのない所に行くようにとしてる。好きな都市は、バルセロナやパリ、ミランとか、歴史が深くて美しい所。南アメリカとアフリカにはまだ行ったことがないけど、これから行ってみたいと思う。

―タイで変わったらいいなと思うことがあれば教えてください。

タイ人は我慢強い人が多いと思うけど、この地球が美しい場所であり続けるためには、世界的にもっと我慢と理解が必要だと思う。違う意見を持っていたって、それが間違っているとは限らないし、その人のことを批判したり、嫌いになる必要はないよね。理解しようと思う心があれば、世界は変わっていくと思う。

―それでは、カンさんにとって成功とは?

成功って、ダブルエッジナイフみたいだなって思う。成功すればするほど、それを無くした時の恐怖心が生まれる。僕の人生は今までアップダウンの繰り返しだった。自分が本当にやりたいことは他人に受け入れられず、やりたくないことが受け入れられてしまうこともよくあったね。でもそれによって、どんな状況もありのまま受け入れることを学べたし、いつもベストを尽くして、自分が思う成功のレベルに達せるように努力し続けることが大事だとわかったよ。

― 大変な時は、学ぶことが多くありますよね。

僕はパーフェクトじゃないし、今まで間違いを起こしたりしたこともあったけど、今は自分が学んできた知識を人に教えてあげられるようになった。自分を理解することができれば、人生はそんなに難しいものではない。中には物事が上手くいかなくなって自信を失ってしまったり、中には自殺してしまう人もいる。特に今の時代は、SNSとかを見て他人の人生を自分のと比べて、落ち込んで引きこもったり鬱になってしまう人が多い。それって悲しいことだよね。テクノロジーの進化は素晴らしいけど、それによって悪いことも起きる。

―確かにそうですね。若い子達にアドバイスをするとしたら?

自分が持っているものに感謝をして、幸せを感じて欲しい。幸せに見える人だって、みんなそれぞれの問題を抱えてる。僕は、父の死によって人生は短いんだって知ったし、どんな時も今を楽しむことが大事だと学んだよ。例えばもし仕事を楽しめない状況にいるんだったら、仕事以外で楽しいと思うことを見つけるとか、バランスを取ると良いと思う。友達に会うのだっていい。小さいことでも幸せな気持ちになれることはあるはず。

―最後に、今後の夢を教えてください。

プロデューサーとして、Twopeeをもっと成功させたいね。僕自身は、50歳になるまでに自分のアルバムを作る。あとは、ビジネスを通してでも、チャリティーをするのでも良いから、人助けをしたい。今の僕にとっては、人から何かをもらうことより、与えられることの方が幸せだから。みんなに僕の経験から何かを学んでもらって、それがその人の成功に繋がっていけば、嬉しいね。

 

Text & Photo: Atsuko Tanaka