―大阪生まれで、4歳まではロサンゼルスで過ごされたそうですね。小さい頃は、どんな子どもでしたか?
常に笑顔で、明るかったらしいです。でも、人と違うことが好きだったみたいで。ハロウィンの時も、みんなはヒーローの被り物とかなのに、僕はゴリラの顔にガンマンの衣装を合わせたコスチュームを着ていたらしいです。あとは、バットマンやスパイダーマン、超人ハルクなどの実写版を見て、よく絵を描いていました。子どもらしい絵ではなく、ちゃんとした頭身で、結構リアルに描いていたみたいです。
―ご両親はどんな方で、どんな育てられ方をしましたか?
父親は商社マンで、仕事が好きで、僕が大学生になるまではほとんど海外駐在でしたね。母は薬剤師でありながら、ジャズダンスのインストラクターもやっていて。レッスンを教えるのに忙しく、僕にとってはかっこいい存在でした。
―小さい頃、なりたかった職業はありましたか?
小学校低学年の頃は、ヒーローかな。変身用の腕時計みたいなものを自作して、友達と共有しながら、鉄棒でいろんな技を磨いて特訓していました。それから、小6の卒業文集に書いた夢は、画家と獣医と刑事。画家は、絵を描くと褒められたり、市の展示会に出すと入選したり、佳作をもらえたりしていたので、そっちの能力があるんじゃないかなと感じていて。刑事は、僕のおじいちゃんが刑事で、強くてかっこいいイメージがあったので。獣医は、近所の犬を飼っている家のマップを作ったり、そのお宅を勝手に訪問したりするくらい犬や猫が好きだったので。

左:小さい頃 右:小6の頃に描いた絵
―中学生の頃はどんな日々を送っていましたか?
中学の時に千葉から大阪に転校して、最初はいじめではないけど、強い奴らに目をつけられたりして大変なこともありました。そういう状況を救ってくれたのが、僕が描いた一枚の絵で。美術の時間に、みんなは鍋敷きを彫っていたんだけど、僕は途中からやっても間に合わないから絵を描きなさいと言われて、前に座っている子を描くことになったんです。その彼が頭が良くて、まあイケメンなんですよ。そうしたら、その絵がすごく上手いと評判になって。それが誰を描いたかというと、現大阪府知事の吉村(洋文)くんだったんです。
―それはすごい偶然ですね!
休み時間に女の子たちが、その絵を見せてと集まってきて。そうなると男連中に目をつけられて、カンペンやリコーダーを壊されたりなんてこともありました。でも僕は要領よく立ち向かっていって、その後は生徒会役員や修学旅行委員長とかをやらされたりして、みんなに慕ってもらっていった感じです。その後、2年生の途中で元いた千葉の中学校に転校して、周りは受験モードだったので、僕もかなり勉強を頑張って、昭和学院秀英高校に入学しました。
―その頃、目指していたものは?
特になかったですね。進路適性検査を受けた時、何の職業を書いていいかわからず適当に選んで出したら、返ってきた結果は「美術、体育、音楽」でした。職業ではなく、科目っていう。それで、興味があった美術予備校に行くことにしたんですけど、そこのコンクールで1位を取れて。それをきっかけに、それまでやっていたサッカーを辞めて美術に専念することにしました。

―高校卒業後は多摩美に行かれたんですよね。
はい。もともとは空間デザインや空間美術を目指していたんですが上手くいかず、浪人時代に工芸の道に進もうと思って、多摩美ではガラス工芸を学び、その後また一浪して入った藝大では彫金を学びました。でもやはり、一つの素材に特化して表現することに違和感を感じて。もっといろんな材料を使って、何でも表現できる技術はないものかと悩んでいた時に、たまたまテレビで特殊メイクの特集を目にして、興味を持ちました。
―どんな特集だったんですか?
ホラー映画の『らせん』で、真田広之さんが内臓をくり抜かれて、死んでいるのにムクムクと起き上がるシーンが割と怖くて。それが造形物を使っていたことがわかって、人間をリアルに作る技術も材料もわからないし、人間を作れたら何でも作れそうだし、面白いと思ったんです。それで、その映画の特殊メイクを監修している人が学長を務めていた、代々木アニメーション学院に行くことにしました。
―そこではどうでした?
何の経験もない人たちが多い中、僕は二浪して美大を出ているから結構できちゃうわけです。最初はちょっと余裕だったんですけど、1年経った頃、気づいたらみんな上手くなっていて焦りを感じて。2年目は授業というより自主制作みたいなことが多かったので、周りの人たちと関わりながらいろんなことをやって楽しかったですね。とはいえ、その先どういう仕事があるのかわからなかったし、特殊メイクで食べていくのはなかなか難しいのかなと感じていました。
卒業が数カ月後に迫っていた頃、青山のURという美容室から、国際フォーラムで約3千人のお客さんを前に行うヘアショーの特殊メイクが必要だということで、学校にオファーが来ました。僕はみんなに誘われて仕方なく行った感じだったんですけど、そのヘアショーのテーマがベトナム戦争で、想像もしていなかった世界観があって、自分の常識が完全に覆されました。
その時に、URの代表である川島さんに言われた「常識は偏見だ」という言葉がすごく響いて。元々はアインシュタインの「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない」という言葉なんですけどね。それで後日、理由をつけて川島さんに会いに行ったらすごく歓迎してくれて、僕がURのVIPルームの改装をすることになりました。それ以降、学校には行かず改装に専念し、川島さんと関係を築いていく中で共同会社を立ち上げることになり、卒業して2カ月後に「自由廊」を創業しました。

左:代アニ時代 右:URのヘアショーで手がけたヘアメイク
―会社を立ち上げて、しばらくはどんな感じでしたか?
それまで僕は美術予備校の講師ぐらいしかやったことがなかったのに、いきなり会社を立ち上げて、100平米くらいの倉庫を借りたわけです。とりあえず電話線を引いて、タウンページに会社の連絡先を載せて、待ってみました。でも電話は鳴らない。結局PCがないと仕事が受けられないとわかって、すぐにPCを購入して、急いで知り合いにホームページを作ってもらいました。
―最初はどんな仕事を受けていたんですか?
ヘアショーとか、学生映画のヘアメイクとかですね。でも予算は低い上に、適正価格がわからないんですよ。最初の頃は一つの仕事で5万、10万って、学生上がりからするとすごい金額だと思ってやっていたけど、やっぱりそれじゃ会社は回っていかない。手探り状態で、一つひとつ自分で考えながらやっていました。

会社を設立した頃
―その後、転機となったお仕事は?
2年目に『テレビチャンピオン』というテレビ番組に出て優勝しました。その肩書きができたことで少しは信用がついて、プロレスラーのグレート・ムタが被る衣装やマスクを作ったり、マジシャンのセロの特殊メイクをやったりするようになって。それで借金を返すことができて、3年目にはいくらか残るようになりました。4年目にようやく僕ともう1人のスタッフに給料が出るようになって。

マジシャンのセロ氏と
―軌道に乗ったと感じられるようになったのは何年目ぐらいでしたか?
急にドーンみたいなのはなくて、綺麗に階段を上ってきた感じです。でも、大きなきっかけとしては、シリコンメイクの技術を身につけたことですね。僕はお金がなくても毎年ハリウッドの特殊メイクの展示会に足を運んでいて、そこで関係性を築いた日本人アーティスト、カズ・ヒロ(辻一弘)さんにお願いして教えてもらったんです。
それまでの特殊メイク技術は、フォームラバーというゴム素材で、明るいところだとリアルに感じられるのは約5メートルまで。それ以上近づくと特殊メイクだとバレてしまう。その時に、ハリウッドでシリコンメイクの技術が出てきたわけです。シリコンだと2メートル以内でもリアルだと思ってもらえるクオリティで。僕はリアルなものが好きで、そこを追求してきたので、なんとかしてこの技術を身につけたいと思い、カズ・ヒロさんに教えてほしいと頼みました。いろんな人に聞かれていたと思うんですけど、なぜか僕にだけ教えてくれたんです。

カズ・ヒロ(辻一弘)氏(真ん中)と、代アニ時代の先生で特殊メイクアーティストの中田彰輝氏(左)
―それはとてもラッキーでしたね。
そうですね。実は、シリコン技術には会場で売られている材料以外にも必要なものがあって、それを含めて教わっていたのは僕だけだったんです。それで帰国後、テレビ東京が「特殊メイクをしたら身内にバレないか」というドッキリ企画を検討していて、いろんな特殊メイク会社に相談していました。多くの人が難しいと言う中で、僕は「従来のゴムの特殊メイクでは難しいけれど、シリコン技術なら成立すると思います。まずテストしてみてはいかがでしょうか?」と強気に提案したんです。経験は一番少なかったけれど、この技術なら勝負できると思っていました。
―いいですね!
結果僕がやることに決まり、テストとして、当時の番組ディレクターだった佐久間宣行さんを特殊メイクで違うおじさんに変えて、他の人の名前で同僚に名刺交換してみたんです。そうしたらバレなかったんですよ。これだったらいけるとなって、そこから3本、そのドッキリの特番が組まれ、僕が合計18人ぐらいの特殊メイクをしました。それを通して、シリコンメイク技術の中で日本のパイオニアになれたというのはありますね。
―それはやはり自信につながりました?
でかいですね。シリコンって高いので、利益を出そうと思ったらゴムでやった方が良くて、そういう選択をしていたアトリエもあると思うんです。ただ、うちは学生映画とか、やっても利益が出ない経験も散々してきていたし、それよりも実戦を大事にしていて。僕の中に「3K」というモットーがあるんです。それは「金、顔、糧」。この3つのうちどれか一つでも当てはまるものがあれば、必ずその仕事を受けることにしていました。「金」は、予算があるか。「顔」は、予算がなくても、その仕事をやることで自分を知ってもらえるか。「糧」は、その仕事を通して、それまでやったことのないことに挑戦できるか。
―面白いですね。
URのヘアショーから始まって、「常識は偏見の塊」みたいな考えの中にずっといて、講義などでも「右向け左」ということをよく言うんですけど、要は、みんなが右を向いている時の左の世界を見よう、と。美しいものの中にある毒とか、綺麗なものの中にある汚いものを探したり、人と違う観察眼を持つことを心がけていました。

―みんながいいと思う仕事ではなく、その逆を行く。
そう、それで仕事は順調に増えていきました。でも、もともと僕はアーティストを目指していたはずなのに、社員が増えるにつれて社長業が中心になっていって。デザインは描くけど、実際に作るのはスタッフという状況に、少し違和感を覚えるようになりました。そこで、もっと自分のクリエイティブをダイレクトに表現できる方法はないかと考えて始めたのが、フェイスペイントとボディペイントです。その後、ベトナムの環境広告用に制作した作品が海外で評価されて。「顔を変えるのは特殊メイクだけじゃなく、ペイントでもできる。それこそ『右向け左』だな」と思い、その世界にどんどんのめり込んでいきました。インスタも始めて、3年間で100作品ほど制作しましたね。
―ところで、これまでの活動で辛かった時期はありましたか?
いや、割と楽しかったですね。でも、スタッフには毎年「辞める」って言ってるんですよ。まあ、辞めるイコール、リタイアしてどこかでゆっくり過ごすとかではなくて、次に行くぞっていう意味なのと、俺が辞めてもこの会社は大丈夫かっていう、スタッフに対しての鼓舞でもあるんだけど。これだけ毎年言っていると、みんな別に何とも思ってないですね(笑)。
―特殊メイクの学校も運営されていますが、いつから、なぜ始めようと思ったんですか?
今18年目です。国内の特殊メイク学校で学んだ子とか、海外で学んだことがある子たちのレベルが少し低いと感じていたのと、自分の会社を大きくしていくには、自分のところで育てるのが一番だと思って始めました。他の特殊メイク学校は2年制が多いんですけど、僕はあえて1年制にしています。厳しい環境ですが、その方が業界で生き残る力がつくと思っています。それに常に会社で受けている仕事を見せられるし、新しい技術もすぐ生徒に教えられる。そういう意味では、うまくいっていると思います。

自身の学校で授業を教えている様子
―特殊メイクアーティストに向いている資質はありますか?
基本的には、観察をちゃんとできる人ですね。観察って単に見るだけじゃなくて、見たものから何かを取り入れないと意味がない。あとは本当に努力というか、自分がやりたい目標に対して一歩一歩進めることが重要だと思います。
―先ほど今まで辛かったことを聞きましたが、逆に一番嬉しかった出来事は?
一つは、自分が思いついて始めたボディ・フェイスペイントの作品が世界中でバズったことですね。そこをきっかけに海外からのオファーもありました。特殊メイクって、傷、血だらけ、グロい、汚いみたいなイメージがあって、ビューティーとは真逆のところにあるんです。でも、ペイントを始めることで、モデルさんを綺麗にしなきゃいけなくなった。そこでビューティー系の商材を取り寄せて、いろんな技術をミックスして使うようになって、ペイント、アートメイク、ビューティーメイク、特殊メイクの隔たりを壊していく作業をしました。そうやって「右向け左」でカテゴリーを崩していく考え方は、今、他のことにも生きています。最近で言うと、自分のアパレルブランドをローンチしました。

これまで手がけたボディ・フェイスペイントの作品

新たに立ち上げたファッションレーベル「AJ」では、既成概念にとらわれない視点から生まれた、ウェアとプロダクトを展開
―先日展示会で見せていただきましたが、とてもカッコ良かったです。
最初からあまり尖ったものは受け入れられないと思ったので、まずはお披露目という形で、基本的には僕が着たいと思うもの、そして若い人たちにも着やすいものを意識して作りました。でも、ちょっとしたギミックも好きなんです。例えばこの三角形のバッグは、持ち歩く時は折りたためて、開けばいつでもバッグになる構造にしました。あとは靴や傘も作りましたね。
―今後予定されている展示はありますか?
7月はフランスで開催されるジャパンエキスポに呼ばれていて、日本の技術を紹介するということで、特殊メイクとペイントを披露します。あとは秋に大阪で刺繍アートの展示があります。僕が女性の背中を花瓶に見立ててボディペイントし、そこにフラワーアーティストの志村大介さんが花を生けるというコラボ作品を、中国の刺繍工場にお願いして、特許技術による非常に細かいドット刺繍にしてもらったんです。写真はすごくリアルに写せるけれど、温度感はないなと感じていて。その点、刺繍は一本一本の糸が紡がれて、機械がやるものだけれど、そこから生まれる魅力があると感じています。

フラワーアーティストの志村大介氏とのコラボ作品
―今、日本や海外の特殊メイク業界は変化していますか?
世界的に見ると、ハリウッドではCGの発展によって、アナログの特殊メイクで生きてきた人たちが仕事を追われつつあります。一方、日本はCG技術も進んでいますが、生の演技や実在感を重視する文化があるので、特殊メイクの需要はまだ高い。実際に僕もNetflixなどの仕事が増えていますし、技術のクオリティも上がっています。ただ、これからはリアルな見た目を作るだけじゃダメなんですよね。役者さんの表情や芝居をどう生かすか、そこまで考えていかなきゃいけないと思っています。
―独自のスタイルを築くのに苦労している人がいるとしたら、どうすれば良いと思いますか?
僕は特殊メイクだけじゃなく、造形も衣装もやるので、特殊メイク業界の人間だと思われていないかもしれません。でも、いろんなものをミックスして新しいことをやっていきたいと思っているし、これからはそうじゃないと生き残れない気もしています。今はAIやデジタル技術が進化していて、みんなそちらに向かっている。だけど、その分アナログを突き詰めた人の価値は高くなると思うんです。大事なのは対立することではなく、アナログもデジタルも取り込んで、自分にしかできない表現を作ること。それが武器になるんじゃないかと。
―憧れたり尊敬する方はいますか?
いないというか、作ろうと思っていないですね。もちろん、僕にシリコン技術を教えてくれたカズ・ヒロさんの技術はすごいし尊敬しています。でも、憧れの対象として置いてしまうと、超えられなくなりそうで。
―理想の人間像は?
もともと何でも作りたいと思う背景には、いろんな人の「こういうものを見てみたい」という思いに応えたい気持ちがあるんです。それと、目立ちたがり屋ではないんですけど、自分の作ったものを褒めてもらいたい欲求が強い。昔から運動も勉強もアートも幅広くできたので、「器用貧乏」ってずっと言われてきたんです。でも僕の中では、「器用貧乏って言葉はあるのに、なんで器用リッチマンとか器用富豪って言葉はないんだろう?」って思いがあって。そういう意味では、いろんな人を感動させながら、器用リッチマンになることですね。

―今社会で起こっていることで気になることはありますか?
身近なことで言うと、戦争の影響で材料不足になって、商品が入ってこないことですね。特殊メイクに必要な糊が入ってこなくなると、今頑張っている若い子たちがチャンスを失ってしまう。でも逆に、材料不足や材料の高騰は、僕らの価値を高めるチャンスでもあると思っています。今まで僕らの仕事は、映画の裏方みたいなイメージがあった。でも僕はそこを変えたいし、こんなに何でも作れる技術は他にないと思っているので、その価値を社会に認識してもらうチャンスでもあるのかなと思います。
―JIROさんの作品や特殊メイクのスタイルを一言で表すとしたら?
「新しい常識を作る」ことじゃないですか。「これがリアルの限界だ」という基準を更新していくことだったり、ペイントに関しても、誰もやっていない世界観や、誰かがやっていたことにさらに違うクオリティを加えたりして、新しい常識を作ることを実践している感覚です。
―これまで作られた作品で、心に残るものを挙げるとしたら?
意外と過去のことは忘れているので難しいんですけど、屋外広告で制作した松井秀喜さんの巨大フィギュアですね。体がバルーンで、高さが10メートルほどあるんです。バルーンは中に空気を入れるので、膨らみ方によって顔を似せて作りたくても作れない。そこで、膨らませたバルーンに特殊メイク技術を用いたリアルなマスクを被せることができたら、本物らしく見せられるんじゃないかと考えました。特殊メイクにおいて、それほど大きなサイズの顔を作るという発想自体がなかったんですけど、この仕事でその概念を崩すことができました。僕にとっては大きな転機だったかもしれません。

屋外広告で制作した松井秀喜氏の巨大フィギュア
―では、JIROさんにとってチャンスとは?
チャンスって、実はみんなに割と平等にあるような気がしています。それに気づいて取りに行くか、行かないかで人生は変わるのかなと。昔、特殊メイクの特番を取れた時も、多分ほかの人たちにも同じように与えられたチャンスだったと思うんです。でも僕は、何とかして自分のものにしようと思った。チャンスがルーレットのように自分のところへ回ってきた瞬間、それをちゃんとつかみに行けるかどうか。そして、その準備が普段からできているかどうかが大事だと思います。
―JIROさんにとって成功とは何ですか?
自分が成功しているかと言われたら、常に辞めたいと言ってるくらいだから、僕の中での成功は、ひょっとしたら「もう辞めたくない」と思うことじゃないですかね。いつも新しいものに挑戦したくなってしまうけど、そう思わなくなるだけの何かが手に入った時に、成功したと実感できるのかもしれません。
―JIROさんが思う一番の成功者って誰ですか?
いろんな世界を知らない人の方が、成功しているようにも思います。自分の見えている範囲を十分に楽しめて、幸せだと思えている人が、僕にとっての成功者です。でも、小さい世界は多分自分には合っていなくて、ついついいろんなところを見てしまう。僕の周りである程度極めている人たちも、いつも先を見ていて、周りからは成功しているように見えても、自分ではそう思っていない人が多い気がします。成功したいと思うほど目指すフィールドは広がり、そのぶん成功は遠くなる。でも、広げたい人はやっぱり挑戦してしまう。その過程が楽しいんですよね。
―最後に、まだ実現していないことで、これから挑戦してみたい夢や野望はありますか?
いくつかあります。アパレルは最近実現しましたけど、世界的な舞台で、ものづくりだけじゃなく、表現そのものでも勝負してみたいと思っています。コンペティションにも出たいですね。よく10年後、20年後の目標を聞かれるんですけど、毎年変わっていくので想像できないんです。今見えている「誰も知らないもの」や「新しい常識」を追い続けて、一段上の景色が見えたら、またその先へ行く。たぶん、これからもずっとその繰り返しなんだと思います。