IMPRESARIO KEYS
#19 | Jul 18, 2025

型にはまった指導からの脱却。迷いと模索を経て、“選手と共に歩む野球”にたどり着いた掛川西高監督の再出発

Interview & Text: Atsuko Tanaka & Yukie Hashimoto

「IMPRRESARIO KEYS(インプレサリオ・キーズ)」第19回目のゲストは、掛川西高校野球部で監督を務める大石卓哉さん。様々な習い事に取り組んだ幼少期、甲子園出場を果たした高校時代、そして指導者としての苦悩と成長。野球を通して人生を歩んできた大石監督の軌跡は、偶然のような出会いと必然のような挑戦の連続だった。理想を追いながらも結果が出ず、自信を失いかけた日々。そんななかで「選手とともに歩む野球」へと舵を切り、自らのスタイルを築き上げていく。
PROFILE

掛川西高校野球部監督大石卓哉

静岡県出身。掛川西高校の主将として1998年夏の甲子園に出場。中央大学準硬式野球部を経て、浜松工業高でコーチ、三ケ日高で監督を務めた後、2014年から静岡高校で副部長・部長として春夏計5回の甲子園を経験。2018年より母校・掛川西高校の監督に就任。2024年には26年ぶりの甲子園出場と60年ぶりの勝利に導く。選手の自主性を重んじた指導と環境整備で、着実にチームを強化してきた実績を持つ。

スポーツメンタルコーチ辻岡拓也

高校、大学とアーチェリー部に所属し、大学卒業後は2018年までの7年間実業団チーム(自衛隊体育学校)に所属。全日本実業団アーチェリー選手権大会で2016年個人、2018年団体で2度の日本一を経験。 選手引退後はスポーツメンタルコーチ、メンタルビジョントレーニングインストラクターとして多くの選手やチームをサポートしている。 2021年東京パラリンピックにパラアーチェリーナショナルチームのスタッフとして帯同した他、車椅子カーリングナショナルチーム、青山学院大学アメリカンフットボール部、掛川西高校野球部などのチームサポートに加え、プロボクサーから中学生や小学生のアスリートまで幅広い世代のパーソナルサポートも行っている。 スポーツ以外にも企業研修や各種セミナー、経営者のビジネスコーチングなど、独立後6年間で1,300セッションを超える個人・チームサポートを行っている。

【関係性をイスで可視化し、その人の目線で物事を見る】~自分目線と相手目線のギャップを確認~

限界を感じながらもあきらめずに手を伸ばした先で出会ったコーチングは、大石監督とチームの関係性、そして未来を大きく変えていく転機となった。コーチングを活用してどのような変化を遂げていったのか、3つの事例を用いて話していただいた。

子どもの頃はどんな子で、どんなことが好きでしたか?

野球だけじゃなくて、水泳やピアノ、習字、そろばんなど、いろんな習い事をやっていました。すぐに飽きてしまう性格でしたが、当時は友達がやっていることに影響されて始めることも多かったですね。小学校から帰って、そのまま友達と一緒に習い事へ行く、そんな延長のような感覚でした。水泳は市内の掛川まで通っていましたが、そこでも仲間ができて、高校までつながるような友人関係が生まれました。習い事を通して交友関係も広がり、多くの経験をさせてもらった時期だったなと思います。

野球を始めたのはいつ頃でしたか?

小学校4年生の時に、地元の少年野球チームに入りました。父がコーチを務めていたり、保護者たちが交代で指導をするような、のんびりとしたチームでした。週2回、土日の午前中だけの練習が中心で、今思えばあまり練習した記憶はないです。

さまざまな習い事の中で、野球には自然とのめり込んでいった感じですか?

そうですね、レールに乗って進んでいったという面もあるかもしれませんが、掛川西高校の野球部は、野球をやる上で目指すべき場所の一つだったと思います。モヤモヤしたことはありましたけど、辞めたいとか投げ出したいと思ったことはなかったです。

掛川西高校ではどんな日々を送っていましたか?

毎朝早く学校に行ってグラウンド整備をして、授業を受けて、放課後に練習で、終わる頃にはぐったりという感じです。明確な目標があったわけではありませんが、与えられた環境の中でがむしゃらに頑張っていました。運良く素晴らしい仲間に恵まれて、甲子園出場という結果につながりました。当時の経験は、"やればできる" という自己効力感のようなものを自分の中に残してくれたと思います。

甲子園に出場した経験はいかがでしたか?

甲子園に出場したことで、人とのつながりが生まれたり、その後のご縁にもつながったりしました。対戦校の先輩で当時キャプテンだった方は今、大学野球で指導にあたっていますが、その方との縁で自分も指導者としての道を歩み始めることができました。「甲子園に出たから最高だった」とは言い切れないですが、今の自分を形づくっているのは間違いなくその経験です。切っても切れない、人生の大きな分岐点だったと思います。

高校卒業後は中央大学へ進学されました。

甲子園に出場した実績が評価され、スポーツ推薦という形で進学しました。指導者の方から「環境の良い場所で野球ができるけど、行ってみないか」と声をかけていただき、「じゃあ、頑張ってみます」と。準硬式野球部に所属し、キャプテンも務めさせてもらいましたが、教員免許を取るための授業にも出ながらだったので、正直完全燃焼できたとは言えないですね。

卒業後はどのような道を?

社会の教員免許を取得したので、母校の掛川西高校で教育実習もさせていただきました。だけど、「自分が本当に求めているものはこれなのか?」と疑問が湧いてきて。そこから2年間、体育の教員免許を取るために、筑波大学で学ぶことにしたんです。野球のない生活で、アルバイトをしながら一人暮らしを始めて、自分の足で人生を歩き始めたような、志が定まってきた時期だったと思います。「自分で一歩踏み出さないと、何も動かないんだ」と実感できた、すごく楽しい2年間でした。

そんなある日、掛川西高時代の先輩から「今、何してる?浜松工業高校の野球部でコーチをやらないか」と連絡をいただいて。すぐに「行きます」と返事をして、3月からコーチを務めることになりました。わずか2年間でしたが、非常勤講師をしながらとても充実した日々でした。そのとき出会ったのが、当時監督だった栗林先生です。その後、静岡高校で栗林先生が監督、私が部長という関係で一緒に野球に取り組むことができました。自分の力というよりも、良きご縁に導かれて道が開けていったと感じています。人との出会いには本当に恵まれてきたと思います。

静岡高校で部長を務めていた頃。当時監督だった栗林氏と(左)

素晴らしいですね。その後、掛川西高校に行かれたきっかけは?

静岡高校では、栗林先生と二人三脚の日々がとても充実していて、素晴らしい選手たちに囲まれながら、監督と選手のつなぎ役として、いい関係が築けているという実感がありました。ですが、春の選抜の東海大相模戦で負けて。静岡に戻った後、慌ただしく片付けをして、掛川西のユニフォームを着るという、激動の展開でした。実は静岡高校の前にも、三ヶ日高校で監督を務めていたので、自信がついてきたタイミングでの異動で。現実に直面して「自分はまだまだだ、力が足りていなかった」と痛感しました。

掛川西で監督として指揮をとってみて、しばらく大変な時期が続いたそうですね。

栗林先生のやり方やチーム作りが、自分の中ではとても理にかなっていると思っていたので、口調から人との距離感まで、すべて真似しました。それをやれば、選手の力がついてチームも結果が出るはずだと。でも、全くうまくいきませんでした。選手との距離感もつかめず、成績も上がらない。数年間ずっとモヤモヤしていて、選手との関係性もあまり良くないのではないかと感じていました。

その流れが変わってきたと感じたのは、いつ頃でしたか?

2年目に大会の序盤で悔しいコールド負けを喫して、「このままではダメだ」と思い、そこから選手と一緒に地道に歩み始めようと決意して、「選手のために何ができるか」をしっかり考えて行動するようになりました。そして4年目を迎える頃、栗林先生の真似ではなく、自分自身のやり方で前に進もうと吹っ切れて。OBや周囲の方々にはいろいろと思われるかもしれないけれど、まずは自分と選手、スタッフ全員が納得できる野球をしようと。最上級生を大切にして、彼らが満足できる野球をしようと取り組んだところ、4年目の春の東海大会で優勝できました。「よし!」と思ったのですが、夏の甲子園には届かず。それでも、選手たちと一緒に毎年少しずつ強度を上げながら進んでいきました。ただ、ベスト8やベスト4の壁を超えられない。自分の指導ではその壁を破れないのではないかと、常に感じていました。

その後コーチングに出会ったきっかけは?

昨年の夏の大会に向けて練習していた春の段階で、「このチームをなんとか甲子園へ連れていきたい」と思いながらも、モヤモヤが続いていました。不安が消えず、本校でずっとフィジカルトレーナーをしてくださっている、寺中特殊部隊の寺中さんに相談したんです。すると寺中さんが、コーチングを受けてみたらどうかとその場で辻岡さんに電話をしてくれて。まさに、藁にもすがる思いでした。

抱えていた問題

■結果を出せない焦りと周りの期待から、選手にプレッシャーを与えていた

掛川西高校監督7年目の2024年の春、そろそろ結果が出ないと指導者を続けられないかもしれないという焦りと、変化のない自分や選手の本音を図りかねている自分へのモヤモヤがあった。また、地元からの期待も大きく、多額の寄付や応援が選手達へのプレッシャーとなり、本来の力を発揮できていないのではとも感じていた。

大石監督:「私自身、『勝たなければいけない、指導者たるもの、甲子園に導くのが使命だ』というような、肩ばった考えというか、要は結果にビビっていたんだと思います。それが選手にも伝わって、『掛川西は簡単に負けられない(勝たなければならない)』という大きなプレッシャーを与えてしまっているように感じていました」

「結果が出せなければ、もう指導を続けられないかもしれない」。そんな焦燥感と、変わらない自分や選手たちの本音をつかみきれない苛立ちがあった

解決方法

■現状や想いを言語化・見える化・具体化してみる

辻岡コーチは、大石監督に現状や想いなど何でも話してもらい、それを見える化・具体化していった。まず、周りとの関係性の課題に対し、椅子を使って見える化した上で、相手の目線を味わうことを促した。そして、その中で大石監督から出てきた「突き抜けた存在になれればいい」という未来像に対し、その為に必要なことをマインドマップし具体化することを提案した。

大石監督:「自分の考えていることや、自分の悩み、目指してる方向、いろんなものが目に見えて可視化されて。そうすると、進むべき方向や気にしなくていいこと、人間関係もひっくるめていろいろ気づけて、すごくすっきりしたんです。『ああ、自分はこういう人間なんだ、さあ、前へ進めるぞ』と。これならスッキリした顔で選手の前に立てる!と思えました」

椅子を使って見える化

得られた結果

■自分のあり方が明確になり、余裕を持ってグランドに立てる様に

自分自身が学んで変化していくことにしか、選手の気持ちや本音を理解する方法はない。また、自分がワクワクしなければ、選手にとっていい言葉かけや手立てもできない。自ら人生を楽しんで充実させ、余力を持った状態で選手と接していれば、必然的に選手達もそういう育ち方をする、など自分のあり方が明確になった。

大石監督:「そこからは、自分が楽しむことの方が優先なんで、もう毎日ウキウキしてました。楽しいとか、ユーモアがあるとか、心に余裕を持っているとか、仲間と共にそういう空気感の中で生活をしたい、という方にフォーカスしていったって感じですかね。そうした方が自分もグランドに立つことが楽しいし、新しい発見をしたり、選手が本当に何を求めてるのかを探すだけでいいので、困った顔にはならんのですよね 」

コーチ補足

■関係性をイスで可視化し、その人の目線を味わってみる

周りの方との関係性の課題については、「チェアワーク」というアプローチを行いました。まず、他の顧問の先生、恩師、OB、後援会の方など、今の監督を取り巻く方達との関係性をイスを使って見える化します。そして、監督にそれぞれ方の椅子に座ってもらい、感じていたその人達のイメージと、その人たち目線で監督を見た時の感覚の、ギャップや共通部分を感じてもらいました。すると、思ったより気にしなくていい人に気づけたり、『そこを気にしない位自分が突き抜けた存在になればいい』という言葉も出てきました。そこで、そんな存在になる為に必要なものを、マインドマップの形で書き出し、具体化・細分化してもらうと、自分がやるべきことが明確になりました。

次は、今までで一番視界が開けたコーチングについて

1
 
2
 
3